鍼灸の基礎になっている東洋医学では、西洋医学とは違った観点から体を見ていきます。東洋医学では、私たちの体は本来バランスがとれているもので、そのバランスが失われるとさまざまな病気になると考えます。そのバランスを示す概念は、二つあります。
陰・陽
男と女、光と陰、プラスとマイナス、裏と表など、この世の万物は対極にある二つの概念で支えられています。それは、体にも当てはまるとされます。そして、その両対極の力関係のバランスが崩れるとき、病気が起きるというわけです。
体の健康にかかわるバランスは「陰陽」と呼ばれています。「陰」とはマイナスに傾く現象、「陽」はプラスに傾く現象と考えていいでしょう。その陰陽の間を行き来しているのが「気」です。東洋医学では、「陰の気は下に向かい、極まれば上に昇る。陽の気は上に向かい、極まれば下に降りる」といわれています。
例えば、私たちは基本的には昼間は「陽」の気が盛んで、夜になると「陰」の気が盛んになります。しかし、こうしたバランスが崩れて、夜になっても「陽」の気が盛んな場合、不眠症になってしまいます。
虚と実
こうした陰陽のプラス・マイナスの状況を表わすのに、東洋医学では「虚・実」という概念を用います。
「虚」とはマイナス、あるいは低下している状態を表わし、「実」とはプラス、あるいは向上していることを表わします。一般的な考えでは、「実」がよく「虚」がよくない状態と考えがちですが、そうではありません。あくまでも両者のバランスがとれていることがいいのです。
例えば、頭痛があり肩がこっているのは上半身の「実」、腹痛があり、冷え症であるのは下半身の「虚」です。この場合、上半身の「実」を下げ、下半身の「虚」を上げるように気をコントロールするのが施術者の仕事です。
陰陽のバランスを虚・実という物差しで判断し、もとの健康な状態に整えること、それが東洋医学の基本です。この時、ポイントになるのが、いわゆるツボです。ツボにはそれぞれ、どの部分を虚にする、あるいは実にするという性格があります。そこに鍼、灸などで適切な刺激を与えるというわけです。
五行
五行とは、この世に存在するすべての物質をその性質によって五つに分類し、さらにそれらが互いに及ぼしあう影響関係をまとめたものです。
東洋医学では、万物はその性質によって木、火、土、金、水に大別できるとします。そしてまず、これらは互いに補いあう関係を持つとします。例えば、木は火を起こし、火は灰から土になり、土は固まって金(ゴールドに限らず鉱物全般というような概念)となり、金には水が寄ります。その水で木が育つという考えです。このように物質が補いあう関係を「相生」といいます。
一方、木は(道具となって)土を耕し、土は水をせき止め、水は火を消し、火は金を溶かし、金は(道具となって)木を切るという関係も成り立ちます。このように互いに反発しあう関係を「相克」といいます。
この五つの概念は、私たちの体にも当てはまるとされています。木は「肝」、火は「心」、土は「脾」、金は「肺」、水は「腎」とされています。
ここでは肝は肝臓に、腎は腎臓にかかわっていますが、東洋医学では実際には西洋医学の臓器とはちょっと違う範囲で考えています。そのことはここでは詳しく説明する余裕がないので、体の各部分がこの五つのどれかに当てはまると考えられていることだけを理解してください。
例えば「心」が強くなると(実すると)、その影響は図からわかるように「肺」に出ます。ですから、「肺」の調子が悪くなったとき東洋医学では肺そのものだけを見るのではなく、「心」の様子を見ます。そして、「心」が実になりすぎないような処置をすると同時に、「心」に影響を与える「肝」の働きを強めるのです。こうして、悪い部分だけをピンポイントで見ていくのではなく、体全体のバランスを整えるという視点で治療していくのが東洋医学の方法なのです。
手首の過伸展予防テープ(手の平側) |
手首の過屈曲予防テープ(手の甲側) |
ソフトエラスティックテープを巻いて補強します |
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足関節捻挫の再発予防テープ
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仕上げにソフトエラスティックテープを
巻いて補強します |
足関節捻挫後の圧迫を加えるU字パッドの固定に |
スポーツのケガで、よく肉離れやすじ違い、捻挫(ねんざ)という言葉を耳にしますが、これらはそれぞれ別 の外傷です。この2つの違いについて説明します。
一般に筋違いや肉離れとよばれる外傷は、正式名を筋挫傷(きんざしょう)といいます。筋挫傷とは、筋肉や腱(筋肉を骨に付着させる組織)が打撃または無理に伸ばされることによって生ずる怪我です。筋組織をやや伸ばした程度の軽度のものから、組織が完全に断裂してしまう重度のものまで色々で痛みや腫れ、その筋肉を使っての動作ができないなどの機能低下まで症状はさまざまです。
一方、捻挫とは靭帯(じんたい)の外傷を指します。靭帯は骨と骨をつないでいる組織で、関節内にあります。靭帯には、関節が動ける範囲を越えて曲がりすぎたり、伸ばされ過ぎたりしないよう安定させる大事な役割があります。例えば、足首の外側の関節(外くるぶしのあたり)には、靭帯が3本あります。この靭帯は、足部が前に行き過ぎたりすることのないよう、あるいは内側に曲がりすぎたりすることのないようしっかりつなぎとめておく役割をしていますが、足の裏の外側から着地して無理に体重がかかったりすると、靭帯が支えきれなくなって、伸びたり切れたりします。これが、足首の捻挫です。このような怪我は、肘や膝など体内の他の関節でも起こります。
※筋挫傷・捻挫のどちらの場合でも、自己判断はせず、すぐに医師の診断を受けましょう。
どんな筋挫傷や捻挫でも、いちばん適切な応急処置法は、受傷した部位に氷などをビニール袋に入れてつくるアイスパックまたはフレキシコールドを置き、約20分間冷やすことです。これをアイシング(冷却)と呼びます。アイシングすることによって、腫れを最小限に抑える手助けができます。痛みを軽減させる効果もあります。腫れを更にコントロールするには、フレキシコールドの上からチャンプラップなどの伸縮包帯を強めに巻き、怪我をした脚や腕を心臓よりも高い位置に上げておくことも大切です。受傷したところを高く上げておくのは、その部分に腫れの原因になる不要な蓄積物が溜まらないようにするためです。
※アイシングは一度に20分以上行わないよう気をつけましょう。フレキシコールドは、冷凍庫から取り出して使用する前に必ず霜をきれいにふきとりましょう。凍傷の原因になります。
試合・練習前には必ず充分なウォーミングアップを行いましょう。体の筋肉や関節が硬いまま、突然激しい運動を始めると、挫傷や捻挫の危険性も高くなります。普段のウォーミングアップの中に、必ず筋肉の柔軟性を高めるストレッチングを組み込みましょう。また、ウェイトトレーニングで、受傷しやすい関節の周りの筋肉を鍛えることも、怪我の予防に効果的です。特に、一度挫傷や捻挫を起こしたことのある部位は、きちんと筋力を回復させないと、また同じところを傷める可能性があります。チャンプラップ(伸縮包帯)を巻いたり、ブレース(サポーター)やテーピングをしたりすることもからの復帰直後や再発防止に役立ちますが、最も大切なのは適切なエクササイズを行い(リハビリテーション)、筋力や筋持久力、バランス感覚などの向上に努めることであるのもお忘れなく。 ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。ここに説明文が入ります。
中国医学 | 漢方医学 | 韓医学 |
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五行による相互作用の分析図 |
日本では、漢方医学を中国医学と同じものと捉える人も多いが、漢方医学は中国から伝来した医学が日本で発展したものであり[1]、重視する理論や診断法、使用する生薬量などに違いがある[2][3][4]。日本、朝鮮半島、チベットなどの中国周辺の医学は、中国医学の影響を濃く受けて発展した。公文書に漢文を用いた中国・日本・朝鮮半島では書籍の翻訳が必要なかったこともあり、医学書の交流も盛んであった[5]。東南アジアの伝統医学は、中国医学・アーユルヴェーダ両方を取り入れたものが多い。
以下のような点が中国医学の特徴として挙げられる。
中国における歴史について記す。
殷代の甲骨文などには「医」「薬」といった文字は見当たらず、未だ人々のあいだに医療という概念がなかったものと思われるが、やがて巫祝(ふしゅく)と呼ばれる、集落の神事とともに人々の病も癒す呪術師的存在があらわれることになる。最初の医療は、今でいう「占い」「魔よけ」にあたるものが主流であったが、やがてそこへ生薬などの「薬物療法」や、鍼灸の原初的段階が組み入れられていく。それとともに巫祝も、巫を専門とする神官的な存在と、医を専門とする医師的な存在に別れていったと考えられている。
こうして秦以前にも扁鵲(へんじゃく)などの名医の存在が数々の記録に残っており、たとえば扁鵲は六不治の一つとして「巫を信じて医を信じざればすなわち不治」をかかげ、すでにこの時代に医者と呪術師的な存在、すなわち医学と宗教とは明確に分離されていたことをうかがわせる。
前漢(紀元前202年~紀元8年)の時代には『黄帝内経』という現在知られている最古の医書が編纂されている。後漢(25年~220年)の時代に張仲景により『傷寒雑病論』が編纂される。ただ、この『傷寒雑病論』は、長い戦乱で散逸し、雑病の部分だけが見つからず、『傷寒論』だけが残り、孫思邈の『千金要方』などに、引用文などが書かれてはいたものの、『雑病』にあたる部分は発見されずにいた。北宋時代に王洙が『金匱玉函要略方』を発見し、その後半部分が『雑病』の部分にあたるとして、林億らによって、『傷寒論』と重複する部分を分けられ、『金匱要略(正式名称は金匱要略方論)』として、世に出回ることになる。張仲景は『傷寒雑病論』の序文において、『黄帝内経』を理解してから読まなければならないと書いているため、『黄帝内経』も読まずに『傷寒論』『金匱要略』を軽々しく扱うことを疑問視する流派もある。『傷寒論』は現在医学での流行性感冒と推測される急性熱性疾患をモデルに病勢の進行段階と治療法を論じたとする流派もあるが、『傷寒』とは狭義の意味は急性熱性疾患であるが、広義は熱性疾患のみに留まらぬ意味もあるため、これもまた意見の分かれるところでもある。中国医学は張仲景によって初めて理論的に体系化されたともいわれる。
唐代の孫思邈は、医学全書である『備急千金要方』などを著すが、これまでの医学思想に神仙系の医学思想や仏教医学の思想を加味した。『傷寒論』の薬方を取り入れて『千金翼法』を著した。[7]
金・元時代(960年~1367年)には金元四大家と呼ばれた劉完素、張子和、李東垣、朱丹渓らが現われる。『黄帝内経』の理論を元に六淫理論、四傷理論といった新しい理論が表された。一方南宋では「太平恵民局」という公立の薬局が設けられて医者や官民に良質な薬を提供するシステムが構築され、宋慈が『洗冤集録』という世界初の本格的な法医学書を著しており、こうした成果は南宋を滅ぼした元王朝にも継承された。
また、明の時代に医師の李時珍が『本草綱目』を著して薬学・本草学の分野でも大きな進歩があった。
中国においては、戦後、国民党政府の伝統医学廃止運動に反発する形で、共産党政権による伝統的医学復興が国策として行なわれ[要出典]、「中医学」としてまとめられた。現在、西洋医学を行なう通常の医師と、伝統学を行なう「中医師」の二つの医師資格が併設されている。 中華人民共和国成立に伴い、中国共産党は、大陸各地に点在していた伝統医療の担い手を「老中医」と呼んで召集し、伝統医学の教育に充てた。ただし、清末以来戦乱に明けた大陸では、体系立った伝統医学などは残っておらず、老中医にしても、ほとんどが家伝の生薬方なり鍼灸方なりを、各個伝えているだけであった。このため、これら個々の伝統技術を統合する理論体系が必要とされ、毛沢東の強い意向を受けて、伝統医学が整理・統一され「中医学」理論が設えられた。つまり、現在の中医学は、中国において統一教科書教育が必要になった1959年を皮切りとし、文化大革命の時期を中心として展開されたもので、これ以前の中国医学を「中国医学」、以降を「中医学」として区別する考え方もある。
1958年の南京中医学院が編纂した教科書『中医学概論』では、五臓六腑ごとに病証が展開されており、病証も『千金方』の五臓病証に類似している。この教科書では「肝虚寒証」のように現在の中医学では用いられない病証が含まれる。また『千金方』には「腎実熱」などまで含まれる。
鍼灸を例にすれば、現在の中医理論は経絡治療と似ていて五臓の母子関係や相剋関係を中心に理論構築を展開する。およそ1960年代より、雑病の一つだった「肝気郁逆」(「肝気鬱滯」)が肝の基本病証の一つとなった。また、「肝鬱気滞」が肝実証である、という認識は中国ではあるけれども、日本での認識は乏しく、「肝実証」という発想は、脈診を中心として診断をおこなう経絡治療家にも理解しやすいものである[8]
中医学は、中華人民共和国において、多様な中国伝統医学を整理・統合して作られた医学体系である。診療は、基本的に中医師が行う。ただし、日本においては中医師の資格は使えないため、これを行うのは日本国で有効な医師免許を持つ者、または一部の鍼灸師が行う中医針灸である。中医師の免許は米国などでは認可されているが、日本では現在未認可であるため、中医師免許のみでは診療行為を行うことができない。このため中国は中医師資格の認可を日本政府に働きかけている。
現代中国の中医学は、西洋医学の影響を受け、中医内科、中医外科、中医婦人科、中医小児科などに細かく分類され複雑化している。中国の中医師の資格種類は次のとおりに分けられる。
その他に医師は西洋医があるが、西医学部を卒業後に中医学研修を受け、西洋医学も中医学も理解する「中西医結合」治療を行う医師(中医学部では西洋医学も同様に学習するため、両方の処方が可能である)もいる。この際、診察や処方において「西洋医学の薬にしますか、中薬にしますか」などと聞かれることがある。
日本の漢方医学と同根ではあるが、日本と中国の社会的事情、歴史的経緯、生活習慣、風土などの違いから、漢方医学と中国医学は診察方法などが大きく異なる。例えば以下のようなものである。
按摩 | |||
中国語 | 推拿 | ||
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漢語拼音 | tuī ná | ||
英文表記 | Push and grasp[6] | ||
|
中国大陸では明代以後、医療行為としての按摩は推拿(すいな)と言うようになった。これは日本では中国整体と呼称しているものであり、現在の中国政府も公式な中医学の医療用語として「推拿」を採用している。現在、日本国内の按摩と中国大陸の推拿は、技法は似ているが、用法が全く違うので注意が必要だ。
日本において中国整体という民間療法が行う技法の多くは、推拿の一部の専門手法を用いた推拿式整体療法といえる。しばしば中国整体は日本で言う按摩と誤解されるが、それは按摩が推拿の技法に一番近いことも関連する。現在では、数は少ないが推拿専門の教育機関も存在している。
「推」には手を一方向へ押し進めるという意味があり、「拿」にはその押し進めた手で掴みあげるという意味がある。中国医学では、その理論に基づいて経絡や筋肉・関節などに様々な手技(後述の按摩の基本手技と同一のものも多い)を用いて疾病の予防・治療を行っており、鍼灸と並んで「推拿科」として治療をしている病院も多い。また、中国には法的にも推拿師・保健推拿師・推拿医師という資格がある。
近年は欧米では、中医学がTraditional Chinese medicine (TCM、伝統中国医学)の名で普及し、補完・代替医療として治療・研究が広く行われている。
漢方医学(和漢方・和方):日本で発達した中国医学系の伝統医学の呼称である。中国を起源とする伝統医学は、古代から断続的に日本に伝来していたが、大陸で失われた古文献や古い技術も維持されたものがあり、現在では鍼灸・生薬ともに、中国医学とは趣を異にする物に発達している。例えば、中国では腹診は廃れたが、漢方医学においては重視されており、逆に中国で重視される脈診は日本ではあまり重んじられない。薬用量も、中国で使われる量に比べ、生薬を輸入に頼っていた日本の量は3分の1程度である。また重視される文献や理論も異なっている。
日本の中国医学系伝統医学は、江戸時代に蘭方に対して用いられた漢方または漢方医学という名が、一般的に使われている。漢方医学は鍼灸も含む場合もあるが、現在は漢方薬による治療のみをさすことが多い。日本においては鍼灸は医師・鍼灸師がおこない、漢方薬は医師・薬剤師がおこなう分業になっている事もその一因と考えられる。日本では中国や韓国と異なり、伝統医の国家資格は存在せず、専門教育もほとんど行われていない。
朝鮮半島の医学は、日本にも影響を与えた。「一鍼二灸三薬」と言われるほど鍼灸が重んじられており[9]、現在の韓国は世界唯一の鍼灸専門医制度を持っている[10]。
漢方医学(かんぽういがく)または漢方は、狭義では漢方薬を投与する医学体系を指す[1]。また漢方は、漢方薬そのものを意味する場合もある。広義では、中国医学を基に日本で発展した伝統医学を指し、鍼、灸、指圧なども含む[1]。現在日本の東洋医学業界では、古典医学書に基づく薬物療法を漢方医学、経穴などを鍼や灸で刺激する物理療法を鍼灸医学、両者をまとめて東洋医学と呼んでいる[2]。
5・6世紀に、まず朝鮮半島、のちに中国から、日本に中国医学が伝来したといわれる。漢方医学は、明に留学した僧医などによって、金・元の医学が導入されてから徐々に独自性を持つようになり(後世派)[1]、16世紀室町時代以降に発展し[3]、活発な貿易が行われた安土桃山時代に一般に普及した。(これは、日本では生薬の多くは輸入する必要があり、海上ルートの確立が欠かせなかったためである[4])陰陽五行説の影響の大きい後世派に対し、江戸時代にはこれを批判して実証主義的な古方派が台頭し、のちに2派を統合した折衷派が生まれた[5]。現在の漢方医学にも3派の名残がみられ、特に古方派の影響が大きいといわれる[6]。
漢方医学では、伝統的診断法によって、使用する生薬の選別と調合を行う。このように処方された生薬方を漢方薬と称す。漢方薬の一部は1976年(昭和51年)から保険薬として収載されており、現在では漢方薬を使った治療が広く行われている[7]。しかし日本には、中国や韓国のような伝統医の国家資格は存在せず、1883年(明治16年)以降、医師国家試験の課目にも漢方医学は含まれなかった。そのため漢方医学の体系的な知識を持つ医師は少なく、漢方薬が西洋医学的発想で使われるなどの問題も散見される[8]。
日本の医学教育では、漢方医学を始めとする伝統医学の教育は100年以上ほとんど行われなわれなかったが、2001年に、医学部の教育内容ガイドラインの到達目標に「和漢薬を概説できる」が加えられたことで、全国の大学で漢方医学の講義が徐々に行われるようになってきている[9]。
16世紀以降、西洋医学が日本に導入されて南蛮医学、紅毛医学と呼ばれたが、江戸中期には西洋医学をオランダ人がほぼ独占するようになり、蘭方または洋方と称された。これに対して、中国医学系の従来の医学を漢方と呼ぶようになった[8]。幕末から国学と漢学を尊皇的に皇漢学といい、明治14年ころから和漢学と称されたが、それに伴い漢方も皇漢医学、和漢医学と呼ばれた。日清戦争以降、西洋と対になる東洋という用語が定着したと考えられており、昭和25年に日本東洋医学会が設立されて、東洋医学という呼び方も一般的になった。現在日本の東洋医学業界では、漢方医学(古典医学書に基づく薬物療法)と鍼灸医学(経穴などを鍼や灸で刺激する物理療法を)を合わせて東洋医学と呼んでいる。
漢方医学は、「気血水」「虚実」などの理論や、「葛根湯」などの方剤(複数の生薬の組み合わせ)を中国医学と共有し、テキストとして中国の古典医学書が用いられる。しかし両者には多くの違いがあり、特徴としては具体的・実用主義的な点が挙げられる。
現在の漢方の主流である古方派[10]では、中国医学の根本理論である陰陽五行論を観念的であると批判し排除したため、漢方には病因病理の理論がなく、証(症とも。症状に似た概念)に応じて『傷寒論』など古典に記載された処方を出すのが主流である[6]。証を立てるための診断法としては、脈診を重視し腹診がすたれた中医学とは対照的に、腹診を重んじ脈診はあまり活用されない[8]。また、使われる生薬の種類は中国より少なく、一日分の薬用量は中国に比べて約3分の1である[8][4]。(これに対して、韓医学(朝鮮半島)で使われる生薬量は中程度である。)
漢方医学の処方は、『傷寒雑病論』(現在では、『傷寒論』(しょうかんろん)及び『金匱要略』(きんきようりゃく)と呼ばれる2つのテキストとして残る)を基本とした古い時代のものに、日本独自のマイナーチェンジを加えたものである。「温病」(うんびょう)など、明から清にかけて中国で確立した理論はほとんど漢方医学には受け継がれていない[6]。
気血水説は古医方を唱えた吉益東洞の考えを、長男の吉益南涯が敷衍した理論であると日本では言われているが、『黄帝内経』に同じような記述も見られる節もあり、表現が違うだけで東洞が考えたというのは甚だ疑わしいとする声もある[11]。
気血水理論では、
の3つの流れをバランスよく滞りない状態にするのが治療目標になる。
陰陽五行論も中国医学の理論化に用いられた。ただし、現在の漢方は、陰陽五行論を観念的として除した古方派[13]が主流であり、診断・処方にはあまり用いられない[6]。
実は体力の充実している状態、虚は体力の衰えている状態であるが、体のどこが虚しているかが重要である。
症状を含めたその患者の状態を証(しょう)と呼び、証によって治療法を選択する。証を得るためには、四診を行うだけではなく、患者を医師の五感でよく観察することがまず必要である。
西洋医学では、患者の徴候から疾患を特定することを「診断」と呼び、これに基づいて疾患に応じた治療を行う。しかし漢方医学では、治療法を決定すること自体が最終的な証となる。例えば葛根湯が最適な症例は葛根湯証であるという。
証の分類と治療法の選択について、さまざまな理論化がなされた。
治療法を決定するためには四診(望、聞、問、切)を行う。
漢方医学における体からの毒素を排出(いわば「瀉」)する際に重視したもの
などの施術があげられる。
日本には遣隋使・遣唐使によって、また朝鮮経由で中国から伝えられた。8世紀に日本に戒律を伝えた鑑真は医学にも精通したとされ、756年に崩御した聖武天皇の御物を納めた東大寺正倉院には多くの薬品が納められている。982年には現存する日本最古の医書『医心方』が丹波康頼によって編纂された。13世紀頃には禅宗の僧が医学の担い手となった。14世紀を代表する医師として『頓医抄』の梶原性全や『福田方』の有隣が知られている。
日本で現在の漢方医学といわれるものが発展するのは16世紀になってからであった。明に留学した田代三喜は金元医学を学んだ。その弟子であり織田信長に重用された曲直瀬道三は金元医学を解説した『啓迪集』を著わし、また医学舎「啓廸院」を創り息子の曲直瀬玄朔をはじめとして多くの弟子を教えた。金元医学を元にした医学はのちに後世派(ごせいは)と呼ばれる。この時代に医学と宗教の分離が行われた。
17世紀には名古屋玄医が『傷寒論』への回帰を訴えた。後藤艮山が玄医の考え方を発展させ、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞らがこれに続いた。この流れは古方派(こほうは)と呼ばれる。後世派が陰陽理論や五行理論といった抽象的な理論に基づくのに対し、古方派は実証的に『傷寒論』を解釈することに務めた。これは杉田玄白ら蘭学医にも影響を与え、華岡青洲による世界最初の麻酔手術にもつながっていく。しかし古方派の実証主義が結果的には西洋医学流入に伴い漢方医学が衰退する一因となる。
後世派と古方派はしばしば対立したが、後世派の祖である曲直瀬道三も『傷寒論』を軽視していたわけではなく、古方派の後藤艮山は「一気留滞論」を唱え、香川修庵は医学における陰陽五行説を否定するなど、『傷寒論』などの古典を無批判に肯定していた訳ではない。
明治政府の政策により1874年以降は西洋医学を学び医師免許を取得しなければ医師と名乗ることが出来なくなった。現在でもこの規程は有効であり、純粋の漢方医は日本には存在しない(なお、漢方医の運動により1895年に医師法改正案が出されたものの、わずか28票差で否決されている)。ここに至り遂に漢方は壊滅の危機に瀕したが、医師免許を取得した医師が漢方医学の研究・診療することまでは否認されていなかった。1910年に和田啓十郎が『医界之鉄椎』、その弟子の湯本求眞が『皇漢医学』(1928年)を著わし漢方医学の復権を訴え、西洋医学を学んだ医師が漢方も学び実践する形で生き長らえた。
また僧侶の森道伯が後世派の流れを汲む一貫堂医学を築き上げたが、森道伯自身は医師免許が無く、矢数格や矢数道明など多くの医師が弟子として一貫堂に入門してきたため、門人たちによって一つの流派を形成するにいたった。なお、矢数道明はのちに大塚敬節と出会い、日本漢方医学会を結成して、ともに昭和漢方の復興を牽引することとなった。
1950年には日本東洋医学学会が発足した。1976年には漢方方剤のエキス剤が健康保険適用になり、広く用いられるようになった。現在、漢方の担い手の主体は医師というよりは薬剤師や鍼灸師であり、漢方薬局であるが、昨今では漢方医学に関心や理解を示す医師も多くなった。ただし、現代医学と体系を異にする漢方医学を十分に理解して実践している医師は一握りと言われているが、これは当然薬剤師や鍼灸師にも当てはまる事である。
中国医学を源とする医学は、中国(中医学)、日本(漢方)以外にも、朝鮮半島(古くは東医、現在の韓国では韓医学、北朝鮮では高麗医学と呼ばれる[15][16])、ベトナム(南医学)などアジアの広い範囲で行われている[17]。東南アジアの伝統医学も、その多くがアーユルヴェーダと共に中国医学の影響を受けている。
また、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアなどでも中国医学系の伝統医学(Traditional Chinese medicine (TCM))は注目され、広く実施されている。オーストラリアは西洋文化圏で最も中医学が発展しており、2012年には全国で中医の登録制度が実施された[18]。アメリカでは50州の内44州で鍼灸が合法化され、カナダやイギリスでも中医診療所は増加傾向にある[19]。アメリカ国立衛生研究所(NIH)では、中医学中心に伝統医学の研究が行われ、アジアの生薬療法の研究に大きな予算が割かれている。アジアの伝統医学の研究は2003年の段階で、NIHの中のアメリカ国立補完代替医療センター(NCCAM)と国立がんセンター(NCI)
を合わせて250億円ほどの規模で行われており、その成果はアメリカに独占されている。
中国医学系の伝統医学は、代替医療・統合医療の分野で世界的に活用され、グローバル化が進んでおり、標準化が課題となっている。中心地である日中韓の伝統医学は、共有する部分も大きいが理論・用語・処方に様々な違いがあり、政治的な影響もあり足並みはそろっていない。これは、アジアのハーバルメディスン(漢方薬)の標準化を目指すアメリカに対し、アジアの伝統医学にとって大きな不安材料となっている。日本は政府・医学会共に、中国医学の国際化・アメリカ主導の標準化の流れに関心が薄く、中国、韓国、香港、台湾などと異なり伝統医学を扱う政府のセクションは存在しない。国際的にも漢方への理解は低く、外交面で大きく立ち遅れているのが現状である。
漢方医学のこれらの理論は、近代以降主流医学となった西洋医学から「非還元主義的である」「非科学的である」「あんなものは医学ではない」などと批判されることとなる。
しかし、漢方医学はもともと非還元主義的な、直感主義的な診察を選り好んで採用してきたのではなく、漢方医学が発達を遂げた古代から中世までの時代においては、そうした診察法しか方法論的にありえなかった、という反論がなされている。
また逆に現代の医療が、「還元主義的な医療」を念頭に置くあまり臨床検査データに頼りすぎ、それゆえにかえって見えなくなる領域、治せなくなる病症がある状況を鑑みれば、非還元主義的な漢方医療が現代においては、それに対する欠くべからざる補完的役割を果たしていることが指摘される。
さらに「患者を医師の五感でよく観察すべし」という診察法は、どのような医学を修めた医師にとっても共通の指針であるともいえよう。
漢方医学など現代における標準的な医療と体系が異なる医療を支持する人間は、現代の主流医学(mainstream medicine)を指して「西洋医学」と好んで称する。しかしいわゆる西洋医学と言われる医療体系は、その起源を西欧に置くのは確かであるが、現代においては、中華人民共和国及び中華民国を除くほぼすべての国における医療制度はこれを標準としており、「西洋」という地域的な冠称はすでにそぐわない。また、西洋発祥の医療の中にも、カイロプラクティックやホメオパシーなど、主流医学と体系が異なる、非標準的な代替医療(alternative medicine)とされるものもある。欧米では東洋医学は代替医療ないしは補完医療(complementary medicine)のひとつとされており、マッサージ、サプリメントやアーユルヴェーダなどと同列の位置づけである。しかし、日本では歴史的には漢方の方が主流医療であった時代が長く、西洋医学の代替ではなく西洋医学と並ぶ医学体系としてとらえられていた点が、欧米とは事情が異なる。近年は日本・欧米とも漢方の処方や方法論が主流医学にも積極的に取り入れられており、漢方薬と一般薬(西洋薬)が併用されることも多くなっている。中国では、現代医療の方法論を用いる「西洋医」と、中国伝統医学を発展させた「中医」が並立しており、「東洋医学」と「西洋医学」を並立させる考え方に近い医療制度を構築している。
韓医学(かんいがく、한의학)とは、朝鮮半島で発達した中国医学系の医術・薬学を意味し、主に韓国で使われる呼び方である。以前は朝鮮語での発音もハングルでの綴りも同じ漢医学(한의학)、漢方医学、韓方医学(かんぽういがく)と呼ばれた。現在では、北朝鮮では高麗医学(고려의학)、中国では朝医学(조의학)と称されるが、これらは新しい呼称で、李氏朝鮮では医学・医師は東医と呼ばれていた。
朝鮮半島の医学は李氏朝鮮時代に特に発展し、医学書も多く書かれた。また、百済の法蔵(7世紀末 - 8世紀初頭)など、朝鮮半島から渡来した医師が古くから日本で活躍し]、『医方類聚』(1445年)、『東医宝鑑』(1661年)などの医学書が日本に渡来するなど、中国医学だけでなく、朝鮮の医学も日本に影響を与えた。鎖国していた江戸時代にも、朝鮮通信使に同道した医師と日本の医師たちが活発に交流しており、その問答の記録が残されている。
韓医学はその多くを中国医学に拠っているが、鍼灸学は中国・日本とも相当異なる制度・伝統を持って発展し、動物性生薬を多用する点にも特徴がある。「一鍼二灸三薬」と言われるほど鍼灸が重んじられており、現在の韓国は世界唯一の鍼灸専門医制度を持っている。また、李朝末に李済馬が提唱した体質を4つの型に分ける「四象医学」も日本で知られている。現在の韓国の医療は、現代医学と東洋医学の二本立て体制で、韓医師(Oriental Korean Medical Doctor : OMD)は、現代医学の医師同様大学で6年間の教育を受け、漢方専門医師資格と共に鍼灸の資格を持ち、鍼灸術と生薬を併用して治療を行う。
李氏朝鮮では医学・医師は東医と呼ばれており、日本統治時代に漢方医学、東洋医学・西洋医学の用語が定着した。戦後は、北朝鮮では高麗医学、中国の延辺朝鮮族自治州では朝医学と称された。韓国では1980年代から漢方医学を韓方医学に、さらに1986年から韓医学と改め、東洋医学という呼び名も使われなくなった。一方、西洋医学という俗称は現在も多用されている。(正式には「医学」。)最近では、韓医学はTraditional Korean Medicine だけでなく、Oriental Medicine
とも英訳されるので、東洋医学を指すこともあるようである。
朝鮮半島の医学は、中国医学を取り入れて発展した。高麗時代には、特に庶民救済のため、済危宝(ko:제위보)・東西大悲院(ko:대비원)・恵民局(ko:혜민국)が置かれ、現存する朝鮮最古の医学書『郷薬救急方』
향약구급방
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《향약구급방(鄕藥救急方)》은 고려고종(高宗) 연간에 대장도감(大藏都監) 에서간행된한국최고(最古) 의의서(醫書)이다. 초간본은전하지않고 조선태종 17 년의중간본(重刊本) 이남아있다. <방중향약목초(方中鄕藥目草)> 6 장을본문으로하고, 부록으로 <방중향약목초부(方中鄕藥目草部)> 에향약 180 종에대한설명이있어, 고려중기의 본초학 및약용식물등의연구에귀중한문헌이다.
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)(高宗時代 13世紀後半)が編まれた。
李氏朝鮮時代において一般的に韓医学の恩恵に浴する事ができたのは王族・両班と中人階級だけであり[要出典]、一般庶民はもちろん一部の両班(王族も含む)の間でも鬼神信仰にもとづく朝鮮独自の民俗医療が行われていた。李氏朝鮮時代では、太宗の時に医女制度が創始され、世宗の時には『郷薬集成方』と『医方類聚』が編集されたが、燕山君時代に入ると衰退し、中宗時代に入ると明医学そのものに取って代わられ韓医学は完全に廃れてしまう。女真族の侵入や日本との軋轢などにより、明薬の輸入が不安定な時代が続くと明医学の持続が困難になり、韓医学が再び復活するが明医学の強い影響を受けている。宣祖の時代になると、許浚によって評価の高い『東医宝鑑』が編纂され、許任の鍼灸法や舎巖道人の新しい鍼灸補瀉法が創始された。19世紀になると、より実証的で科学的な医学が生まれ、李済馬(ko:이제마)の『東医寿世保元』(ko:동의수세보원)(1894年)からは、人間の体質を太陽人、太陰人、少陽人、少陰人に分ける四象医学(ko:사상의학)が創始された。朝鮮では、許浚・舎巖道人・李済馬が朝鮮時代の三大医学者とされている。
李氏朝鮮後期から末期に入ると韓医学は衰退の一途をたどり、開国後は西洋医学の流入により完全に衰滅し、朝鮮半島において韓医学(特に李氏朝鮮前期)の多くの古医書が逸失している。しかしながら、大韓民国の時代に至り、再び脚光を浴び、多くの韓方医院などが作られ復権している反面、その多くは中医学と区別することが難しいのが実情である。
中国と日本、朝鮮半島、ベトナムなどの周辺国では、近年まで(日本では大正・昭和初期まで)、知的エリート層は高度な漢文の素養を持ち、翻訳を必要とせず漢文の書籍を読むことができ、互いに筆談で会話することも可能であった。このように古典中国語は、ヨーロッパにおけるラテン語、イスラーム圏におけるアラビア語、インド圏におけるサンスクリット語同様、広範囲わたって情報の伝達を可能にし、長期間影響を与えた古典言語であったといえる。韓国の医学は中国医学の影響を受けながら、日本同様に固有の発展を遂げた。日中韓では長い歴史の中で、漢文によって多くの医学書が書かれた。時代・国によって内容には顕著な違いがあるが、相互に医学書が伝えられ、渾然一体となって発展してきた。鍼灸書『神応経』のように、ひとつの書籍が明版→日本→李朝版→和刻版→中国活字版と伝承された例もある。
日本における韓医学の記録は6世紀に遡り、遣唐使の廃止以降も、医学をはじめ多くの大陸の文化が朝鮮半島から日本に伝えられた。10世紀の日本の医学書『医心方』(984年)には、中国医学書だけでなく、『百済新集方』、『新羅法師方』など朝鮮半島の医学書からの引用も数例みられ、書名・内容を知ることができる。後世の引用から、高麗時代には『済衆立効方』、『御医撮要方』などの医学書があったことがわかっているが、現存する当時の医学書は『郷薬救急方』が確認されるのみで、李朝再版本が日本の宮内庁書陵部に唯一残されている。
李氏朝鮮時代には、獣医などの関連分野を含めて200以上の医学書があったことがわかっており[16]、15世紀以前の医学書を集大成した『医方類聚』全266巻(1445年)、明代までの中国医学を基に症状・処方を解説した『東医宝鑑』全23巻(1661年)などが有名で、日本にも伝来している。朝鮮半島の医学書は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592・1598年)の際に日本に持ち込まれ、印刷技術も伝えられた。1592年に秀吉軍が略奪した書籍は、船数艘・数千巻ともいわれる。朝鮮半島に古い書籍が残されていないのはこのためで、16世紀までの医学書の大部分が失われ、かえって日本に多く伝わったのである。日本では、近代化を目指す明治期になると伝統的な医学書は不要とされ、多くが清に流出したが、その中には朝鮮の医学書・朝鮮で出版された中国の医書も含まれていた。清の宝物は、北京の故宮博物院(紫禁城)が所蔵したが、国共内戦の際に中華民国政府が所蔵品を厳選して持ち出した。そのため、清の学者たちが集めた医学書の大部分は、現在は台北の故宮博物院に保存されている。
江戸時代には、鎖国体制のため外国の医学書はあまり伝来しなかった。そこで『東医宝鑑』に注目した徳川吉宗はこれを復刻させ、江戸時代初の官版医書として1724年・1730年に発売された。19世紀には清に輸出され、のちには版木が輸出されて清で出版された。また、朝鮮通信使であった医官や同道した医師と日本の医師の間にも交流があり、筆談による医事問答などを集めた記録が残されている。
韓医学を含めた東洋医学が広く注目されることで、理論の標準化なども試みられ、政治問題に発展することもある。現代では鍼灸は、世界的に活用されており、世界保健機構(WHO)は、1980年代から始まる伝統医学プログラムの一環として経穴の標準化を試みた。日中韓の研究者は多くの検討と議論を重ね、2006年に経穴部位が国際標準化された。この過程で韓国側が「韓国の鍼術方法が採択された」と発表し中国側が反発したが、標準化作業に関わった中国科学院の専門家によれば、最終的に決定された361カ所の経穴に関して、359カ所は中国の国家基準と一致しているという。東アジアの医学は中国を源としながらも、各地で独自の発展を遂げたため、用語や処方、理論にも様々な相違点があり、標準化・統一化には多くの壁がある。しかし、漢方、鍼灸など東洋医学の標準化・グローバル化の流れの中で、アメリカ国立衛生研究所(NIH)では、大幅な予算を割いて中医学中心に研究が行われ、その成果はアメリカのものになっている。研究の規模は2003年の段階で、NIHに属するアメリカ国立補完代替医療センター(NCCAM)と国立がんセンター(NCI)を合わせて250億円に上るものである。アメリカが作ったアジアのハーバルメディスン(漢方薬)の基準が、グローバルスタンダードとしてアジアにおしつけられる可能性もあり、アジアの国々、特に東洋医学の中心である日中韓が分裂したままでいることは、アジアの伝統医学全体にとって弱みであると指摘されている。
日本では中国医学の研究に比べ、朝鮮半島の医学・医学史の研究は非常に手薄であるが、朝鮮医学史研究の大家として三木栄(1903 - 1992)の名が挙げられる。当時、朝鮮半島の文化・科学技術の日本への影響は知られておらず、日本だけでなく朝鮮でも、朝鮮半島の科学・医学史の研究はほとんどなかった。昭和3年から16年間朝鮮半島に暮らした三木は、その解明に一人取り組み、『朝鮮医書誌』(1956年)、『朝鮮医学史及疾病史』(1963年)を刊行した]。日韓両国で評価が高く、韓国科学史学会感謝牌賞、日本医史学会功労賞などを受賞している。
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