遣唐使
遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では619年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。現在では中国側において派遣された遣唐使の墓が発見されたりしている。[要出典]
上海万博に際し復元された遣唐使船 |
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目次 |
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遣唐使の目的
海外情勢や中国の先進的な技術や仏教の経典等の収集が目的とされた。旧唐書には、日本の使節が、中国の皇帝から下賜された数々の宝物を市井で全て売って金に替え、代わりに膨大な書物を買い込んで帰国していったと言う話が残されている。
第一次遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬の派遣によって始まった。本来、朝貢は中国の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。
なお、日本は以前の遣隋使において、「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。遣唐使の頃には天皇号を使用しており、中国の皇帝と対等であるとしているが、唐の側の記録においては日本を対等の国家として扱ったという記述は存在しない。むしろ天平勝宝5年(753年)の朝賀において、新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる。しかし、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が中国王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。
その後、唐僧・維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。
遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。
回数
回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。
他に14回、15回、16回、18回説がある。
遣唐使派遣一覧 |
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次数 |
出発 |
帰国 |
使節 |
その他の派遣者 |
船数 |
備考 |
1 |
舒明2年 |
舒明4年 |
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2 |
白雉4年 |
白雉5年 |
吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使) |
2 |
第2船が往途で遭難 |
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3 |
白雉5年 |
斉明元年 |
高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使) |
2 |
高向玄理は帰国せず唐で没 |
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4 |
斉明5年 |
斉明7年 |
2 |
第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される |
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5 |
天智4年 |
天智6年 |
守大石(送唐客使)・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間 |
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(6) |
天智6年 |
天智7年 |
伊吉博徳(送唐客使) |
唐使の法聡を送る。唐には行かず? |
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7 |
天智8年 |
不明 |
河内鯨(大使) |
第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか |
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8 |
大宝2年 |
慶雲元年 |
4 |
701年に粟田真人を執節使(大使より上位)として任じられるも風浪が激しく渡海できず。翌702年6月に改めて出立するも、高橋笠間は別の任に充てられ渡航せず、参議となっていた粟田を大使として出立。701年の出立の際に粟田は文武天皇から節刀を授けられた。これが天皇が節刀(遣唐使や征夷将軍などに軍事大権の象徴として授けられた)を授けた初例とされる。また「日本」の国号を使用し、白村江の戦い以来の正式な国交回復を目的としていた。 |
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9 |
養老元年 |
養老2年 |
多治比縣守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(藤原宇合)(副使) |
4 |
前回の倍以上となる総勢557人。残留した留学生を除き、使節は全員無時に帰還。藤原馬養は唐滞在中に「宇合」と名を改めた。 |
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10 |
天平5年 |
天平6年 |
4 |
帰路、各船遭難し、第1船の多治比広成は種子島に帰着(吉備真備・玄昉)。第2船の中臣名代は唐に流し戻され、唐の援助で船を修復し翌天平7年(735年)に唐人・ペルシャ人らを連れて帰国。第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国、南ベトナム)に漂着し抑留されるが脱出。阿倍仲麻呂の奔走・仲介により、唐から渤海国を経て日本海を渡り天平11年(739年)10月27日に出羽国へ到着帰国。第4船、難破して帰らず |
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(11) |
天平18年 |
- |
石上乙麻呂(大使) |
- |
停止。緊張関係にあった新羅への牽制と、黄金の輸入を目的としたものと想像されている。 |
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12 |
天平勝宝4年 |
天平勝宝6年 |
4 |
鑑真来日。4船が帰路に就く。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂らは帰途で暴風雨に遭い安南(現在のベトナム中部)に漂着、唐に戻りのち客死。大伴古麻呂・鑑真・吉備真備らを乗せた第2,3船は屋久島などを経由して帰還。帰還に成功したこの2隻は「播磨」「速鳥」の名を持ち、758年にこの2船に対して従五位下の位が与えられた。 |
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13 |
天平宝字3年 |
天平宝字5年 |
1 |
藤原清河を迎えるために派遣され、渤海路より入唐も安史の乱のため清河の渡航を止められ、目的果たせず。内蔵全成は渤海路より帰国。高元度は唐からの送使沈惟岳と共に761年に大宰府に帰国。 |
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(14) |
天平宝字5年 |
- |
中臣鷹主(遣唐判官) |
船破損のため停止 |
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(15) |
天平宝字6年 |
- |
唐使沈惟岳を送らんとするも安史の乱の影響により渡海できず停止。その後、沈惟岳は日本に帰化し、姓と官位が与えられた。 |
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16 |
宝亀8年 |
宝亀9年 |
小野石根(持節副使・大使代行)・大神末足(副使) |
4 |
775年4月に任命された大使・佐伯今毛人は11月に大宰府から帰還し節刀を返上。翌777年4月は都を出た時点で病と称し難波津より先に行かず。大伴・藤原両副使は更迭。藤原清河を迎える目的もあったが、小野石根らが長安入りした年に清河死去。第1船、帰途で遭難し小野石根、唐使趙宝英ら死亡。大伴継人や藤原清河と唐人の間に生まれた娘の藤原喜娘は乗船の難破・漂流の後、来日。 |
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17 |
宝亀10年 |
天応元年 |
布施清直(送唐客使) |
2 |
唐使孫興進を送る |
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18 |
延暦23年 |
大同元年 |
4 |
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19 |
承和5年 |
承和6年 |
4 |
承和3年・承和4年とも渡航失敗。この過程で第一船が損傷し、大使の常嗣は副使の小野篁が乗る予定の第二船と自身の第一船を交換した。これを不服とした篁は常嗣への不信と親の介護、自身の病を挙げて渡航に不参加。流罪となった。副使不在のため藤原貞敏が現地代行。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船は帰途に南海の島に漂着。良岑長松、菅原梶成は協力し廃材を集めて船を作って大隅国に帰着した。 |
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(20) |
寛平6年 |
- |
唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により停止。ただし大使の任は解かれず。907年に唐が滅亡し、遣唐使は廃止となる。 |
歴史
日本が最初に遣唐使を派遣したのは、舒明天皇2年(630年)のことである。推古天皇26年(618年)の隋の滅亡と続く唐による天下平定の情報は日本側にも早いうちから入っていた可能性があるが、聖徳太子・蘇我馬子・推古天皇と国政指導者の相次ぐ崩御・薨去によって遣使が遅れた可能性がある。ちなみに、高句麗は唐成立の翌年、新羅と百済はその2年後に唐への使者を派遣している。だが、この第1次遣唐使は結果的には失敗であった。唐は帰国する遣唐使に高表仁を随伴させたが、高表仁は日本にて礼を争い、皇帝(太宗)の言葉を伝える役目を果たせずに帰国した(争った相手については『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』は倭の王とする)。『日本書紀』にはこのような記述は存在しないものの、高表仁の難波での賓礼以降、帰国までの記事が欠落すなわち高表仁と舒明天皇の会見記事が記載されておらず、何らかの異常事態が発生したことを暗示している。詳細は不明であるが、唐側が日本への冊封を意図して日本がこれを拒んだなどのトラブルが想定されている。その後、しばらく日本からの遣使は行われず、唐側も突厥や高昌との争いを抱えていたため、久しく両者間の交渉は中絶することになる[1][2]。
その後、白雉4年(653年)から天智天皇8年(669年)まで6度の遣唐使が相次いで派遣されているが、朝鮮半島情勢を巡って緊迫した状況下で行われた遣使であった。地理的に唐から離れていた日本は国際情勢の認識で後れを採り、特に斉明天皇5年(659年)の第4次遣唐使は唐による百済討伐の情報漏洩を阻止するために唐側によって抑留され、2年後に解放されて帰国するまでの間に日本側では百済救援のために唐との対決を決断する(白村江の戦い)。その後の遣使は両国の関係改善と唐による「倭国討伐」の阻止に向けた派遣であったと考えられる。やがて、唐と新羅の対立が深まったことで危機的状況は緩和され、日本側も壬申の乱の混乱とその後の律令体制確立への専念のために再び遣使が行われなくなる[3]。
遣唐使の歴史にとって大きな画期になるのは、大宝2年(702年)に派遣された遣唐使である。日本側の遣使の意図は不明(一時期有力視された石母田正の「大宝律令を唐側に披露した」という説は、唐王朝は周辺諸国の律令編纂を認めなかったとする説が有力となったことから成立困難となっている)だが、当時則天武后の末期にあたり、唐(当時は「周」)の外交が不振な時期であったため、積極的な歓迎を受けた。日本の国号変更(「倭」→「日本」、どちらも同じ国号「やまと」だが漢字表記を変更)が通告されたのもこの時と推定されているが、記録の不備あるいは政治的事情からか遣唐使が唐側を納得させる説明が出来ず、後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったとみられている[2][3]。
8世紀になると東アジアの情勢も安定し、文化使節としての性格を強めていく。この時代には唐側は日本の遣唐使を朝貢使とみなして「20年1貢」を原則とした[4]が、日本側は天皇の代替わりなどを口実にそれよりも短期間での派遣を行った。また、宝亀6年(775年)の遣唐使の際には唐の粛宗の意向で帰国する遣唐使に随行する形で唐側からの使者が派遣されている(ただし、大使の趙宝英は船の難破によって水死し、判官が代行の形で光仁天皇と会見している)[1]。その一方で、正史や現行の律令など唐王朝にとって重要な書籍・法令などは持ち出しが禁じられており、また遣唐使を含む外国使節の行動の自由は制約されていた[5]。
9世紀に入ると遣唐使を取り巻く情勢が大きく変わってくる。まず、唐では安史の乱以後、商業課税を導入した結果、国家の統制下とは言え民間の海外渡航・貿易が許されるようになったことである(これは新羅に関しても同様で、9世紀前半の張保皐の活動はその代表的な存在である)[1]。また、安史の乱以後の唐の国内情勢の不安定が外国使節の待遇にも影響を与え、延暦23年(804年)の遣唐使の時には唐側から厚く待遇されて帰国を先延ばしにすることを勧められる程(『日本後紀』延暦24年6月乙巳条)であったが、承和5年(835年)の遣唐使の時には唐側より遠回しに早急の帰国を促され留学生に対しても留学期間の制限を通告される(円仁『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年2月24・27日条)などの冷遇を受けた[6]。
一方、日本側の事情としては遣唐使以外の海外渡航を禁止していた「渡海制」の存在も影響し、遣使間隔が空くことによって渡海に必要な航海技術・造船技術の低下をもたらし、海難の多発やそれに伴う遣使意欲の低下をもたらした。結果的には「最後の遣唐使」となった承和5年(835年)の遣唐使は出発に2度失敗し、その間に大使藤原常嗣と副使小野篁が対立して篁が乗船を拒否して配流され、帰国時にもその航路を巡って常嗣と判官長岑高名と対立するなど諸問題が一気に露呈した[6]。
更に留学生・請益生(短期留学生)を巡る環境の悪化も問題として浮上していた。元来留学生は次の遣使(日本であれば次の遣唐使が派遣される20-30年後)まで唐に滞在し、費用の不足があれば唐側の官費支給が行われていたが、承和の留学生であった円載の時には官費支給は5年間と制約され、以後日本の朝廷などの支援を受けて留学を続けた(なお、円載の留学は40年に及んだが、帰国時に遭難して水死する)。また、留学――現地で長期間生活する上で必要な漢語(中国語)の習得に苦労する者も多かった。天台宗を日本に伝えた最澄は漢語が出来ず、弟子の義真が訳語(通訳)を務め、橘逸勢は留学の打ち切りを奏請する文書の中において、唐側の官費支給が乏しく次の遣唐使が来るであろう20年後まで持たないことと並んで、漢語が出来ずに現地の学校に入れないことが挙げられており(『性霊集』巻5「為橘学生与本国使啓」)、最終的に2年間で帰国が認められている[7]。
唐の衰退による政治的意義の低下、唐・新羅の商船による文物請来、留学環境の悪化など、日本国内の造船・航海技術の低下など、承和の遣唐使とそれに相前後する状況の変化は遣唐使を派遣する意義を失わせるものであり、寛平6年(894年)の遣唐使の延期とその長期化、ひいては唐の滅亡による停止(実質上の廃止)に至る背景が延暦・承和の派遣の段階で揃いつつあったと言える[6]。
航路と遣唐使船
遣唐使の航路 |
遣唐使船は、大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津(大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川。通称・細井川。細井川停留場)から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て、那津(福岡県福岡市博多区)に至り大海を渡る最後の準備をし出帆。その後は、以下のルートを取ったと推定されている。
663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、676年の唐・新羅戦争で新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため唐と新羅の関係が悪化し、日本は北路での遣唐使派遣が出来なくなり、新たな航路の開拓が必要になった。なお、665年の遣唐使は、白村江の戦いの後に唐から日本に来た使節が、唐に帰る際の送唐客使である。
839年の帰路は、山東半島南海岸から黄海を横断して朝鮮半島南海岸を経て北九州に至るルートがとられたようである。
遣唐使船はジャンク船に似た構造で帆を用いていた。耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来る可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人程度が乗船した。
後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。この原因に佐伯有清は遣唐使船の大型化、東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げている。東野によれば、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたという。しかし、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。
遣唐使の行程
羅針盤などがないこの時代の航海技術において、中国大陸の特定の港に到着することはまず不可能[1]であり、唐に到着した遣唐使はまず自船の到着位置を確認した上で近くの州県に赴いて現地の官憲の査察を受ける必要があった。査察によって正規の使者であることが確認された後に、州県は駅伝制を用いて唐の都である長安まで遣唐使を送ることになるが、安史の乱以後は安全上の問題から長安に入れる人数に制約が設けられた事例もあった。長安到着後は「外宅」と称される施設群が宿舎として用いられた(日本の鴻臚館に相当する)[11]。
長安に到着した遣唐使は皇帝と会見することになるが、大きく分けて日本からの信物(国書があればともに)を奉呈する儀式の要素が強い「礼見」と内々の会見の要素が強い「対見」、帰国の途に就く際に行われた「辞見」が行われた。前者は通常は宣政殿にて行われ、信物の受納と遣唐使への慰労の言葉が下されるが、皇帝が不出御の場合もあった。後者は皇帝の日常生活の場である内朝(日本の内裏に相当する)の施設で行われ、皇帝からは日本の国情に関する質問や唐から日本に対する具体的な指示・意向が示され、遣唐使からは留学生への便宜や書物の下賜・物品の購入の許可などの要請がなされたと考えられている。また、遣唐使の滞在中に元日の朝賀や朔旦冬至が重なった場合には関連行事への参列が求められ、その後の饗宴では大使以下に唐の官品が授けられた(なお、『続日本紀』などによれば大使には正三品級が授けられ、以下役職によって官品の高低に差があったという)。また、対見によって許可された書物の下賜や物品の購入も行われたが、実際には唐側によって公然・非公然に海外への持ち出しを禁じられた書物(正史や法令・叢書など)や貴重品も存在した[5][11]。また、原則的に遣唐使を含めた外国使節は「外宅」に滞在し、現地の住民との自由な接触を禁じられていたが、実際には到着の段階で位置確認のために現地の住民と接触をせざるを得ず、希望する文物を獲得するための交渉などの必要からその原則が破られることは珍しくはなかった[1]。
最後に遣唐使は皇帝に対して帰国許可を求める「辞見」の会見を行う。唐側は末期を除いて遣唐使の長期滞在を望んだが、日本側では使命終了後の早急の帰国(留学生を除く)が原則となっていた。遣唐使が出航する都に向かう際には、唐側から鴻臚寺の官人が送使として付けられ、出航直前に皇帝から託された唐側の国書が遣唐使に渡された。なお、極めて稀であるが、唐側より日本側への遣使が行われたことがあり、第1回の高表仁・宝亀年間の趙宝英(ただし、日本に向かう途中に水死したため判官孫興進が大使の代行を務めた)がこれに該当する。また、安史の乱最中の天平宝字年間には遣唐使の護衛として越州浦陽府押水手官の沈惟岳が付けられている(ただし、乱による混乱から沈惟岳らは唐に戻ることが出来ず、そのまま日本に帰化している)[11]。
派遣者一覧
『延喜式』大蔵省式による遣唐使一行は以下の通りである。
遣唐使の停止
唐では874年頃から黄巣の乱が起きた。黄巣は洛陽・長安を陥落させ、斉(880–884年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。
このため遣唐使は、寛平6年(894年)の派遣が遣唐大使菅原道真による建議「請令諸公卿議定遣唐使進止状」[14]により停止された。この停止は直ちに中止を意味するものではなく、道真ら遣唐使予定者も引き続き遣唐使の職位を帯びていた。「請令諸公卿議定遣唐使進止状」は唐在住留学僧中瓘の唐の国情情報に拠っている。内容の概要は以下
更に、当時の日本の対唐観の変化として、「唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕したとする認識の生成[15]」が、遣唐使派遣事業の消極化の背景として挙げられるとされている。
しかし、昌泰の変によって道真が左遷されて大使を失い、ついで延喜7年(907年)には唐が滅亡したことによって、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした[16]。
遣唐使の停止後の日本の外交・貿易
遣唐使の停止後、日本の朝廷は国家の許可なく異国に渡ることを禁じる「渡海制」と唐や宋などの商船の来航制限(前回の安置(滞在許可)から次回の安置まで10余年の間隔を空ける[17][18])を定めた「年紀制」が採用されたとされている。ただし、「渡海制」自体は公使(公的な使者、日本で言えば遣唐使・遣新羅使・遣渤海使など)以外の往来を禁じた各国律令法の規定[注釈 2]の延長に過ぎず、9世紀後半から唐や新羅ではこの規制が緩んで国家統制下で民間貿易が認められたのに対して、島国であった日本だけが引き続きこの規定を維持する地理的条件を備えていた。同様に「年紀制」もこの仕組を維持するための政策であったと言える[19]。
だが、遣唐使の停止以後も、貴族や寺院を中心とした「唐物」の流行など中国の文物への憧れや需要は変わらなかった。そのため、10世紀後半に入ると朝廷が様々な口実を設けて宋や高麗の商船の入港を認める「特例」が見られ、一方で法の規制をかいくぐって宋や高麗に密航する日本船も登場するようになった。更に「年紀制」の規制では唐宋商人の日本での滞在期間が考慮されず、かつ「年紀制」違反によって廻却(帰国)処分を受けても取引自体は禁じられなかった[注釈 3]ため、唐宋商人は大宰府に近い博多に「唐坊」と呼ばれる居留地を形成して貿易を行った[注釈 4]。とは言え、摂関期・院政期でも「渡海制」「年期制」違反で処分された事例も存在し、こうした規制は曲がりなりにも鳥羽院政の時代(12世紀中期)までは維持されたとみられている。鳥羽院政期に入ると、平忠盛のように大宰府による規制を排除して宋の商船と取引を行うなど、貿易の国家統制が解体されて民間が主導する日宋貿易が本格化することになる[19][18]。
また、日本では遣唐使停止以後に独自の文化である国風文化が発達することになったとされているが、貴族の生活・文化は依然として輸入された唐物によって支えられ、公文書も漢文で作成され続けた。また、王羲之の書や白居易の詩が国風文化の作品とされる書画や文学作品に大きな影響を与えた点についても様々な指摘がされている[20]。こうした風潮は中世の武士の時代になっても同様であり、一例として大鎧に代表される武士の豪奢な鎧は、中国から輸入した色糸が必要不可欠であった。
脚注
注釈
1. ^ 大使と副使は遣唐使の代表と副代表、判官は一行のまとめ役、知乗船事は4隻の船の責任者、船師はそれぞれの船の責任者、史生と議事は文章の記録と編纂、雑使は船内の雑役係、傔人は大使らの身の回りの世話係、挾杪と柁師は船の舵取りとその責任者、水手は船を漕ぐ係、留学生と学問僧は長期間唐に留まって勉学し傔従が彼らの世話係、請益生は勉学にあたるが遣唐使と共に帰国する[13]。
2. ^ ただし、その根拠としては衛禁律に求める説と賊盗律の謀叛に相当するとみる説がある[要出典]。
3. ^ 「年紀制」違反による処分は、滞在中の供給(滞在費用)支給拒否と朝廷との取引停止の効果しかなく、個々の貴族や寺社・商人との取引までを禁じたものではなかった。このため、「年紀制」制定意図を朝廷による唐物交易と財政支出の抑制とみる考えもある(渡邊誠「年紀制の消長と唐人来着定」 [要ページ番号])。
4. ^ 唐宋商人の中には来航後、長期にわたって博多の唐坊を拠点に貿易・商業活動を行い、次の年紀到来直前に帰国して「年紀法」に違反しない形で再度来航する者もいた[要出典]。
出典
1. ^ a b c d e f 榎本淳一「遣唐使と通訳」(『唐王朝と古代日本』(原論文:2005年)) [要ページ番号]
2. ^ a b 森公章「遣唐使の時期区分と大宝度の遣唐使」(初出:『国史学』189号(2006年)/所収:森『遣唐使と古代日本の対外政策』) [要ページ番号]
3. ^ a b 森公章「大宝度の遣唐使とその意義」(初出:『続日本紀研究』355号(2005年)/所収:森『遣唐使と古代日本の対外政策』) [要ページ番号]
4. ^ 東野治之「遣唐使の朝貢年期」(『遣唐使と正倉院』、初出:1990年) [要ページ番号]
5. ^ a b 榎本淳一「遣唐使による漢籍将来」『唐王朝と古代日本』 [要ページ番号]
6. ^ a b c 森公章「漂流・遭難、唐の国情変化と遣唐使事業の行方」『遣唐使と古代日本の対外政策』) [要ページ番号]
7. ^ 森公章「遣唐使と唐文化の移入」『遣唐使と古代日本の対外政策』) [要ページ番号]
10. ^ 森公章「遣唐使の時期区分と大宝度の遣唐使」『遣唐使と古代日本の対外政策』(原論文:2006年)pp. 54-55.
11. ^ a b c 森公章「遣唐使が見た唐の賓礼」(初出:『続日本紀研究』343号(2003年)/所収:森『遣唐使と古代日本の対外政策』) [要ページ番号]
12. ^ 鈴木靖民. “遣唐使(けんとうし)”. 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンク. 2016年4月29日閲覧。 “'...時期によって規模・内容を異にするが...大使(たいし)、副使(ふくし)、判官(はんがん)、録事(ろくじ)、知乗船事(ちじょうせんじ)、訳語(おさ)、請益生(しょうやくしょう)、主神(しゅじん)、医師(いし)、陰陽師(おんみょうじ)、画師(えし)、史生(ししょう)、射手(しゃしゅ)、船師(ふなし)、音声長(おんじょうちょう)、新羅(しらぎ)・奄美訳語(あまみのおさ)、卜部(うらべ)、留学生(りゅうがくしょう)、学問僧(がくもんそう)、※けん従(けんじゅう)、雑使(ぞうし)、音声生(おんじょうしょう)、玉生(ぎょくしょう)、鍛生(たんしょう)、鋳生(ちゅうしょう)、細工生(さいくしょう)、船匠(ふなしょう)、※かじ師(かじし)、※けん人(けんじん)、※カジ杪(かじとり)、水手長(かこちょう)、水手(かこ)...”。注:引用元で外字が用いられている漢字を※印とよみがなで表示している。引用文中の「※けん」は記事本文中では「傔」、「※かじ」は「柂」、「※カジ」は「挟」で表示している。
13. ^ “外国人児童のための小学校社会科教材(小学校6年生歴史教材) (PDF)”. 愛知教育大学外国人児童生徒支援リソースルーム. 2016年4月29日閲覧。 “p. 8:大使:代表 副使:副代表 判官:まとめ役 録事:記録や文章をまとめる。史生:記録や文章を作る。雑使:船の生活でのさまざまな仕事をする。傔人:大使などの世話をする。 p. 9:1) 知乗船事:4隻の船の責任者。2) 船師:各船の船長。...4) 柁師:船の舵取りの責任者。5) 挾杪:船の舵取りをする。6) 水手長:水夫の責任者。7) 水手 :船をこぐ人。... p. 10:1) 留学生:長期間、唐で勉強する。2) 学問僧:長期間、唐で仏教を学ぶ。3) 傔従:留学生、留学僧の世話をする。...5) 請益生:遣唐使がいる間,唐で勉強する。”
14. ^ “請令諸公卿議定遣唐使進止状印本”. 菅家文草・菅家後集. 2015年7月17日閲覧。国文学資料館掲載。
15. ^ 森公章『遣唐使と古代日本の対外政策』p. 177。ただしこの意識が文献的に確認できるのは10-11世紀の文献である(同書p. 191)
16. ^ 森公章「菅原道真と寛平度の遣唐使計画」(初出:『続日本紀研究』362号(2006年)/所収:森『遣唐使と古代日本の対外政策』) [要ページ番号]
17. ^ 渡邊誠「年紀制と中国海商」(『平安時代貿易管理制度史の研究』(原論文:『歴史学研究』856号、2006年)) [要ページ番号]
18. ^ a b 渡邊誠「年紀制の消長と唐人来着定」(『平安時代貿易管理制度史の研究』(原論文:『ヒストリア』217号、2006年)) [要ページ番号]
19. ^ a b 榎本淳一「律令国家の対外方針と〈渡海制〉」(『唐王朝と古代日本』(原論文:1991年)) [要ページ番号]
20. ^ 榎本淳一「〈国風文化〉の成立」(『唐王朝と古代日本』(原論文:1997年)) [要ページ番号]
参考文献
関連書籍
関連項目
遣唐使を扱った作品
外部リンク
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