紫禁城
座標: 北緯39度54分50.1秒東経116度23分27.6秒 北緯39.913917度東経116.391000度 紫禁城)
紫禁城
太和殿 各種表記 繁体字: 紫禁城 簡体字: 紫禁城 拼音: Zǐjìnchéng 注音符号: ㄗㄧˇㄐㄧㄣˋㄔㄥˊ 発音: ズージンチョン |
紫禁城
天壇
頤和園
紫禁城の位置(北京市)
紫禁城(しきんじょう、簡体字: 紫禁城、拼音: Zǐjìnchéng、満州語:ᡩᠠᠪᡣᡡᠷᡞ
ᡩᠣᠷᡤᡞ
ᡥᠣᠳᠣᠨ、転写:dabkūri dorgi hoton)または故宮(こきゅう、簡体字: 故宫、拼音: Gùgōng)は、中華人民共和国北京市に所在する明清朝の旧王宮である歴史的建造物。「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。面積は 725,000m² ある。別称の故宮とは「古い宮殿、昔の宮殿」という意味で、現在は博物館(故宮博物院#中国北京市 )になっている。
目次
|
|
沿革
黄昏の太和殿 |
元がつくったものを明の成祖永楽帝が1406年から改築し、1421年に南京から北京へ都を遷してから、清朝滅亡まで宮殿として使われた。
1644年の李自成の乱で明代の紫禁城は焼失したが、李自成の立てた順朝を滅ぼし北京に入城した清朝により再建され、清朝の皇宮として皇帝とその一族が居住するとともに政治の舞台となった。
1908年12月に、西太后が光緒帝の後継者として愛新覚羅溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代宣統帝かつ紫禁城に居を構える最後の皇帝となった。
1911年10月に辛亥革命が起き、袁世凱の求めを受けて1912年2月に溥儀は退位したが、中華民国臨時政府の「優待条件」として溥儀とその一族は、紫禁城の内廷での居住を許された。
しかし1924年10月の馮玉祥による北京政変の際、11月5日を以って溥儀を初めとする皇族への紫禁城退去が通告され、その後は故宮と呼ばれルーヴル美術館などの例に倣い1925年10月10日に博物館として組織された。1949年に、中国共産党の指導者の毛沢東は城門の一つである天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。
1961年に、中国国務院より国家重要文化財、1987年にユネスコより世界遺産に認定された。現在は建物自体も明と清の歴史を伝える故宮博物院の文物の一つとして一般開放されている。
主な建物
北側の景山公園からの紫禁城の眺め(中央手前は神武門) |
紫禁城見取り図 |
- - - 内廷(北側)と外朝(南側)の大まかな区分境界
A. 午門 |
H. 武英殿 |
北京故宮南北の長さ961m、東西の幅753m、面積は約725000m²。周囲は幅52m の堀が囲む。城壁の高さ12m、底厚10m、頂厚は6m から7m。南に午門、東に東華門、西に西華門、北に神武門[1]がある。「紫禁城」は中国の天文学に従い、北極星(天帝)を皇帝に擬え、地上に「紫微垣」を再現し、世界の中心を地上に再現した領域であり、天帝に代って地上を治める皇帝の住む宮殿として建設された。そのため「天子は南面す」の言葉通り、北に皇帝の宮殿が置かれている。 紫禁城の由来は、天帝(創造主)が住んでいる星とされる北極星を紫微星、北極星の周辺を回る星座の辺りを紫微垣と呼んだのに由来する「紫宮」、及び「天帝の命を受けて世界秩序の維持に責任を持つ皇帝(天子)」の住居たる「禁城(庶民などが自由に入るのを禁止された城)」の二語を合わせ、紫禁城と呼んだことに由来する[2]。
外朝の外、皇城の南
かつては紫禁城をとり囲む皇城が存在したが、辛亥革命以降、皇城の城壁は次々に取り壊されて、現在はほとんど後をとどめていない。
城門
) |
太和殿、中和殿、保和殿の総称。紫禁城の中心的建造物。外朝三殿ともいう。
乾清宮の内部。玉座が安置されその上に『正大光明』の扁額がある。
乾清宮、交泰殿、坤寧宮の総称。内廷の中軸線にあって、内廷の中心的建造物。現在は、清朝時代のままの宮廷の姿を陳列している。
紫禁城最大の花園で楼閣がある他、堆秀山という山があり、紫禁城を居城とした明・清両王朝の歴代皇帝が、后妃達と遊楽をした場所でもある。
妃たちの居住地である。清朝の同治帝の生母、慈禧皇太后が居住し、西太后と呼ばれた。
妃たちの居住地である。清朝の咸豊帝の皇后、慈安皇太后が居住し、東太后と呼ばれた。
寧寿宮(nikton jalafungga gurung, elhe jalafungga gurung)
九龍壁 |
1. ^ 中国の清朝皇帝に関する読本 (清時代、台湾、清朝、紫禁城、故宮博物院、衣装、ラストエンペラー)
|
「https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=紫禁城&oldid=61107057」から取得