文化大革命
文化大革命 |
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文化大革命中に制作されたプロパガンダの絵 |
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種類 |
社会改革運動[要出典] |
目的 |
名目上は中国で資本主義の復活を阻止する社会運動だが、実際は毛沢東が復権するための大規模な権力闘争 |
対象 |
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結果 |
多数の人命が失われ、また国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたらした。 |
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指導者 |
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関連団体 |
文化大革命 |
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各種表記 |
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繁体字: |
文化大革命 |
簡体字: |
文化大革命 |
拼音: |
Wénhuàdàgémìng |
発音: |
ウェンホアタークーミン |
日本語読み: |
ぶんかだいかくめい |
英文: |
Cultural Revolution |
基本概念[表示]
毛沢東主義者[表示]
インターナショナル[表示]
各国の政党[表示]
論文・著作[表示]
関連項目[表示] |
文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1966年[1]から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた社会的騒乱である。全称はプロレタリア文化大革命(簡体字: 无产阶级文化大革命, 繁体字: 無產階級文化大革命)、略称は文革(ぶんかく)。
名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の改革運動だった。しかし実際は、大躍進政策の失敗によって政権中枢から退いた毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、民衆を扇動して政敵を攻撃させ失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争であった。
これにより1億人近くが何らかの損害を被り[2][3]、国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらした。
目次 |
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概要
当時の中華人民共和国の経済は大躍進による混乱ののち、実権を握った(実権派と呼ばれる)劉少奇国家主席や鄧小平総書記が、市場経済を部分的に導入し(このため、実権派はまた走資派とも呼ばれた)回復しつつあったが、毛沢東はこの政策を、共産主義を資本主義的に修正するものとして批判していた。「中国革命は、(劉や鄧のような)走資派の修正主義によって失敗の危機にある。修正主義者を批判・打倒せよ」というのが毛沢東の主張であった。
毛沢東党主席の腹心の林彪副主席は指示を受け、民衆や紅衛兵に「反革命勢力」の批判や打倒を扇動した。実権派や、その支持者と見なされた中国共産党の幹部、知識人、旧地主の子孫など、反革命分子と定義された層はすべて熱狂した紅衛兵の攻撃と迫害の対象となり、組織的・暴力的な吊るし上げが中国全土で横行した。劉や鄧が失脚したほか、過酷な糾弾や迫害によって多数の死者や自殺者が続出し、また紅衛兵も派閥に分れて抗争を展開した。さらに旧文化として破壊の対象となった貴重な文化財が甚大な被害を受けた。
紅衛兵の暴走は毛沢東にすら制御不能となり、毛は1968年に上山下郷運動(下放)を主唱し、都市の紅衛兵を地方農村に送りこんで収拾を図る。その後林彪は毛と対立し、1971年9月毛沢東暗殺計画が発覚したとされる事件が起き、飛行機で国外逃亡を試みて事故死する(林彪事件)。林彪の死後も「四人組」を中心として文革は継続したが、1976年に毛沢東が死去、直後に四人組が失脚して、文革は終息した。
犠牲者数については、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第十一届三中全会)において「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計されている[4]。しかし、文革時の死者数の公式な推計は中国共産党当局の公式資料には存在せず、内外の研究者による調査でも40万人から1000万人以上と諸説ある。
展開
文化大革命は大きく3段階に分けられる。第1段階は1966年5月16日の「五一六通知」伝達から1969年の第9回党大会で林彪が文化大革命を宣言するまで。第2段階は1973年8月の第10回党大会における林彪事件の総括まで。第3段階は毛沢東の死の直後、即ち1976年10月6日の四人組逮捕までである。
期間については、林彪・四人組ら文革派は1969年の文革呼号の成功までが文化大革命であり、その後は文革路線を維持する継続革命段階に入ったとしているが、一般には周恩来を標的として1976年まで続いた批林批孔運動の時期も含める。
発端
中華人民共和国での思想統制は1949年の建国前後にすでに始まっていたが、1960年代前半の中ソ論争により中華人民共和国国内で修正主義批判が盛んになったため、独自路線としての毛沢東思想がさらに強調されるようになっていった。
1965年11月10日、姚文元は上海の新聞『文匯報』に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、京劇『海瑞罷官』が大躍進政策を批判して失脚した彭徳懐を暗に弁護して毛沢東を非難したものであると批判して、文壇における文革の端緒となった。
1966年5月16日に党中央政治局拡大会議は「中国共産党中央委員会通知」(五一六通知)を通過した。この通知は『海瑞罷官』を擁護したとみなされた彭真らを批判し、新たに陳伯達・康生・江青・張春橋からなる新しい文化革命小組を作るものであったが、同時に中央や地方の代表者は資本階級を代表する人物であるとして、これらを攻撃することを指示した。同月、北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶元梓以下10人を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の壁新聞(大字報)が掲示され、次第に文化大革命が始まった。
1966年6月1日に『人民日報』は「横掃一切牛鬼蛇神」(一切の牛鬼蛇神を撲滅せよ)という社説を発表した。この社説の中で「人民を毒する旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を徹底的に除かねばならない」(これを「破四旧」と呼ぶ)と主張した。この社説を反映して、各地に「牛棚」(牛小屋)と呼ばれる私刑施設が作られた。
1966年8月の第8期11中全会での「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革命の定義が正式に明らかにされた。
江青と毛沢東(1930年代撮影) |
文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。その報告には、
党内の資本主義の道を歩む実権派は中央でブルジョワ司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とを持ち、各省市自治区および中央の各部門に代理人を抱えている。(中略)実権派の奪い取っている権力を奪い返すには文化大革命を実行して公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ上述の暗黒面を暴き出すよりほかない。これは実質的にはひとつの階級がもうひとつの階級を覆す政治大革命であり、今後とも何度も行われねばならない
と書かれており、林彪は文化大革命を、国内の反動的勢力に対する新たな階級闘争としてとらえていたことがわかる。なお、前半部分は1965年に周恩来が政治報告で意見した内容と同一であり、当時の毛沢東の認識と一致している。
毛沢東は大衆の間で絶大な支持を受け続けていたが、1950年代の人民公社政策や大躍進政策の失敗によって1960年代には指導部での実権を失っていた。文化大革命とは、毛沢東の権威を利用した林彪による権力闘争の色合いが強いが、実権派に対して毛沢東自身が仕掛けた奪権闘争という側面もある。特に江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四人組は実は毛沢東を含めた「五人組」であったとする見方もある。
毛沢東はのちに「実権派は立ち去らねばならないと決意したのはいつか」とのアメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーの問いに対し、「1965年12月であった」と答えている。
実権派打倒
中国共産党主席と中国国家主席
1966年8月5日、毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題した大字報(壁新聞)を発表し、公式に紅衛兵に対し、党指導部の実権派と目された鄧小平や劉少奇らに対する攻撃を指示する。また紅衛兵による官僚や党幹部への攻撃が「造反有理(上への造反には、道理がある)」のスローガンで、正当化された。
劉や鄧などの支持者、彭徳懐・賀竜らの反林彪派の軍長老に対しては、紅衛兵らによって過酷な糾弾や中傷が行われた。「批闘大会」と呼ばれる吊し上げが連日のように開催され、実権派や反革命分子とされた人々は会場で壇上に引き出され、三角帽子をかぶらされ、殴打され、自己批判が強要された。連日の吊し上げや暴行に憔悴した著名な文化人の老舎、傅雷、翦伯賛、呉晗(ごがん)、儲安平などは自ら命を断った。また、劉少奇や彭徳懐をはじめとする多くの共産党要人が、迫害の末に健康を害し、軟禁されてまともな治療も受けられないまま「病死」していった。
革命委員会
実権派(走資派)らを打倒するために文革派(造反派)らによって全国各地に「革命委員会」が成立した。これにより地方の省、自治区、市などの地方機関や地方の党機関から革命委員会に権力が移譲されていったが、上海市や武漢市など一部の地方では実権派と文革派との間で奪権闘争と呼ばれる衝突事件も発生した。
紅衛兵の結成
紅衛兵を描いた図 詳細は「紅衛兵」を参照 |
原理主義的な毛沢東思想を信奉する張承志ら学生たちによって1966年5月以降紅衛兵と呼ばれる団体が結成され、特に無知な10代の少年少女が続々と加入して拡大を続けた。
しかし次第に毛沢東思想を権威として暴走した彼らは、派閥に分かれ反革命とのレッテルを互いに貼り武闘を繰り広げ、共産党内の文革派ですら統制不可能となり、1968年以後、青少年たちは農村から学ぶ必要があるとして大規模な徴農と地方移送が開始された(上山下郷運動、一般的には下放と呼ばれる)。
紅衛兵運動から下放収束までの間、中華人民共和国の高等教育は機能を停止し、この世代は教育上および倫理上大きな悪影響を受け、これらの青少年が国家を牽引していく年齢になった現在も、中華人民共和国に大きな悪影響を及ぼしていると言われる。
殺戮と弾圧
文化大革命中、各地で大量の殺戮や内乱が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人から1000万人以上ともいわれている。またマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。
内モンゴル自治区においても権力闘争に起因し多くの幹部・一般人を弾圧、死に追いやった内モンゴル人民党事件が起こったほか、旧貴族階級などの指導階級を徹底的に殺戮した。
毛沢東の1927年に記した
革命は、客を招いてごちそうすることでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえ目のものではない。革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である。
という言葉が『毛主席語録』に掲載され、スローガンとなって、多くの人々が暴力に走った[5]。
五七幹部学校
1968年10月に『人民日報』社説が黒龍江省の「五七幹部学校」をほめる社説を載せてから、各地に下放のための施設である五七幹部学校が作られた。「五七幹部学校」の名前は、1966年5月7日に毛沢東が林彪あてに書いた手紙(「五七指示」と呼ばれる)にちなむ。従来「牛棚」に送られていた幹部は、1960年代末から1970年代はじめにかけて、家族と分かれて地方の五七幹部学校に送られ、そこで農作業などの労働をさせられた。
国家主席の廃止論争
詳細は「国家主席の廃止」を参照
ホーカー・シドレー トライデント1E型機(中国民航の同型機) |
林彪は1966年の第8期11中全会において党内序列第2位に昇格し、単独の副主席となった。さらに1969年の第9回党大会で、毛沢東の後継者として公式に認定された。しかし、劉少奇の失脚によって空席となっていた国家主席の廃止案を毛沢東が表明すると、林はそれに同意せず、野心を疑われることになる。
1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に批判されることになる。さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。
林彪事件
詳細は「林彪事件」を参照
1971年9月、南方を視察中の毛沢東が林彪らを「極右」であると批判し、これを機に林彪とその一派が毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。9月13日、中国人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレートライデント 旅客機でソビエト連邦へ逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、人民解放軍に地対空ミサイルで撃墜された説がある。
なお、逃亡の通報を受けた毛沢東は「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ、好きにさせれば良い」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪された。
1970年代
1970年代に入ると、内戦状態にともなう経済活動の停滞によって、国内の疲弊はピークに達し、それに合わせるかのように、騒乱は次第に沈静化して行った。
そのような中で、中ソ対立によりソビエト社会主義共和国連邦との関係が悪化したままの中華人民共和国と、ベトナム戦争の早期終結を目的に、ベトナム民主共和国を牽制しようと目論んだアメリカ合衆国が秘密裏に接近し、それを機にアメリカ合衆国を始めとする西側諸国の関係改善が進んだ。その結果、1971年には、従来中華民国の中国国民党政府が保有していた国際連合における「中国の代表権」が、一部の西側諸国の支持すら受けて、中華人民共和国に移り(国際連合総会決議2758)、翌1972年には、アメリカ合衆国のリチャード・ニクソン大統領が訪中し毛沢東と会談を行ったほか、日本の田中角栄首相も中華人民共和国を訪問、第二次世界大戦以来の戦争状態に終止符が打たれて、日本との間で国交が樹立されるなど、文革中の鎖国とも言えるような状況も次第に緩和されていった。
林彪の死後、周恩来の実権が強くなり、また1973年には鄧小平が復活した。五七幹部学校に追いやられていた知識人はその多くが都市に戻ってきた。しかし、文化大革命はその後も継続され、周恩来らと四人組の間で激しい権力闘争が行われた。
批林批孔運動[編集]
1973年8月から1976年まで続いた「批林批孔運動」は、林彪と孔子及び儒教を否定し、罵倒する運動。中国の思想のうち、「法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間である」とする。こうした「儒法闘争」と呼ばれる歴史観に基づいて中国の歴史人物の再評価も行われ、以下のように善悪を分けた(以下には竹内実『現代中国における古典の再評価とその流れ』により主要人物を挙げる)。
善人
少正卯、呉起、商鞅、韓非、荀況、李斯、秦の始皇帝、前漢の高祖・文帝・景帝、曹操、諸葛亮、武則天、王安石、李贄(李卓吾)、毛沢東ら。
悪人
ブックレット『批孔と路線闘争』 |
この運動は、後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引きずり下ろそうとする四人組側のもくろみで行われたものであり、学者も多数孔子批判を行ったが、主張の学問的価値は乏しく、日本の学界では否定的な意見が強く、同調したのはわずかな学者に止まった。武則天が善人の中に入っているのは江青が自らを武則天になぞらえ、女帝として毛沢東の後継者たらんとしていたからだといわれる。
小説家の司馬遼太郎が行った現地リポートによれば、子供に孔子のゴム人形を鉄砲で撃たせたりもしていたという。
幼少の頃に文化大革命に遭遇し、後に日本に帰化した石平は、「この結果、中国では論語の心や儒教の精神は無残に破壊され、世界で屈指の拝金主義が跋扈するようになった」と批判している。
水滸伝批判
1975年、民衆に根強い人気のあった水滸伝について、当初の首領である晁蓋を毛沢東は自らと重ね合わせ、晁蓋が途中で死亡し、後を継いだ宋江が朝廷に投降したストーリーを批判した。さらに、四人組は鄧小平を宋江に比定し、「水滸伝批判」を鄧小平攻撃に用いた。
終結
1976年には、文革派と実権派のあいだにあって両者を調停してきた周恩来が同年1月8日に死去した。周恩来を追悼する花輪が撤去されたことから四五天安門事件が発生し、鄧小平が再び失脚した。
同年9月9日に毛沢東が死去した。新しく首相となった華国鋒は、葉剣英、李先念、汪東興等の後押しを受け同年10月6日、四人組を逮捕した。
翌1977年7月、失脚していた鄧小平が復活し、同年8月、中国共産党は第11回大会で、四人組粉砕をもって文化大革命は勝利のうちに終結した、と宣言した(ただし、左派勢力に配慮し「第一次文化大革命」と表現し、「第二次文化大革命」が将来ありうるような表現とした)。中共中央党史研究室著『中国共産党歴史』など中国の公式刊行物は、1976年10月6日をもって文革終結としている。(一部には、終結が公式に宣言された1977年8月を文革終結とする見解もある)
1981年1月23日には、最高人民法院特別法廷(いわゆる林彪・四人組裁判)で、四人組と林彪グループに対し、執行猶予付きの死刑から懲役刑の判決が下された。
名誉回復
1978年以降、文化大革命中に反革命で有罪とされた人々に対する名誉回復(平反)の審査が行われた。名誉回復は文化大革命以前の反右派闘争にもさかのぼって行われ、長い年月を必要とした。1989年までに300万人もの名誉回復が行われたという[6]。
革命の輸出路線
ソ連等、国交がある国の多くとも関係が断絶し、外交使節団の交換など交流があった国はアルバニアなど数カ国に過ぎず、10年以上の実質的な鎖国状態を招いたため、中華人民共和国の文化や経済の近代化は大きく遅れることになった。
このような中で、紅衛兵が長年の盟友的存在である北朝鮮の金日成主席を「修正主義者」と批判し、中朝関係が冷え込んだことがあった(なお、北朝鮮も焚書、三大革命赤旗獲得運動など文革と同様の行為を多く行っている)。また、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の支配下で、(時期的には中国の内政では文革の終結時期以降にも及ぶが)自国民の虐殺を行った当時のカンボジア(民主カンボジア)は、文革中から中華人民共和国の親密な友好勢力であった。
ミャンマーでは、土着のビルマ共産党が1950年代からミャンマー軍との内戦を繰り広げていたが、ミャンマーの華人社会での文革礼賛に対するミャンマー政府の取り締まりや反中国デモをきっかけとして、中華人民共和国はビルマ共産党に対する直接的な軍事支援を開始している。この軍事支援は規模が大きなものであり、物資・資金ばかりでなく、軍事顧問や多数の紅衛兵をミャンマーに派遣している。ほぼ同じ時期にビルマ共産党内では権力闘争が頻発し、古参のビルマ族出身の指導者が追放されたり暗殺されたりして、同共産党に対する中華人民共和国の指導力が強まった。それまでビルマ共産党は平野部でのゲリラ戦を展開していたのに対し、中国の介入後はシャン州・ワ州など中国に接する山岳地域に拠点を移している。これらは、結果的に長引く内戦で劣勢に甘んじていたビルマ共産党を一時的ながら復調させ、逆にミャンマー政府は、孤立主義の傾向が強いビルマ式社会主義体制にあって諸外国から有効な援助が引き出せず、苦戦を強いられる事となった。
また、このような鎖国ともいえる状況下にあったために、諸外国、特に西側諸国における文革に対する報道や評価は混乱を極め、その中で朝日新聞の中国報道問題や、日本の一部の左派文化人のような誤報、誤評価も相次いだ。
日本への文革の輸出
詳細は「日中共産党の関係」を参照
中国共産党と日本共産党との関係にも亀裂が生じた。毛沢東は「日本共産党も修正主義打倒を正面から掲げろ」「日本でも文化大革命をやれ」と革命の輸出路線に基づく意見を述べた(無論「意見を述べた」だけに止まらず、この毛沢東の号令を合図に中国共産党と中国政府機関を動員した対日干渉が始まった。日中貿易、北京放送、「日本の真の共産主義者」への国家機関からの財政援助など)。
日本共産党は内政干渉として関係を断絶し激しい論争となった。その一方、日本共産党内でも日本共産党路線に反対し、文革を賛美し、日本での文革引き写しの暴力革命持ち込みを掲げた分派が生まれ、発覚と同時に党から除名されていった。その最初のものが、山口県委員会がほぼ丸ごと移行した左派の日本共産党である(“県委員”機関クラスの知己仲間内のことであり、同県の党組織は即座に再建されている)。
ほかにも当時の日本において毛沢東思想が新左翼の一部で流行していた。山岳ベース事件やあさま山荘事件を起こした連合赤軍も毛沢東思想に魅了されていたとされ、特に委員長の森恒夫は拠点になる秘密基地を作るための関東の山岳地帯への移動を、毛沢東にならって「長征」と称すほどであった。
詳細は「毛沢東思想」を参照
日本共産党は中国共産党側の対日内政干渉態度への自己反省がないことから関係を断絶していたが、その後1998年に、「誤りを誠実に認めた中国共産党側の態度」によって日中共産党は32年ぶりに関係を修復している。
日本共産党と疎遠となったことで、日本の左派における影響力を保持したかった中国共産党はこれ以降必然的に日本社会党との関係を強化していくことになる(日本共産党以外の新左翼は元来ソ連や中国などの既存の社会主義体制に批判的であったため)。
文革の評価
日本における評価
文化大革命が開始された当初は、日本には実態がほとんど伝わっていなかった。だが、1966年(昭和41年)4月14日、全国人民代表大会常務委員会拡大会議の席上で、郭沫若が「今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである」と、過酷なまでの自己批判をさせられたことが報じられると、川端康成、安部公房、石川淳、三島由紀夫は、連名で抗議声明を発表した。
声明において、
「われわれは、左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、支持を表明するものである・・・学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する」 — 「参考作品1」(共同執筆)『三島由紀夫全集』35巻P635(新潮社『三島由紀夫決定版全集36巻』P477)
と述べられ、権力の言論への介入を厳しく批判した。
三島の友人の劇作家・評論家の福田恆存も『郭沫若の心中を想ふ』(文藝春秋『福田恒存全集第6巻』に所収)でその言動を「道徳的退廃」として批判したが、郭自身が北京市で行われた文芸会議で「安全地帯にいる者のお気楽な批判だ」と反論している。
岡崎久彦は、1966年に外務省の資料課長(当時)に着任したが、「中国共産党は、ソ連共産党とちがって、革命意識に燃えた同志たちの集まりであり、ソ連型の権力闘争などありえない」と最後の頃まで信じていた外務省の中国専門家たち[注釈 1]もついには沈黙せざるをえなくなったといい、当時の中国課長は「毛沢東は、もうわれわれが尊敬していた偉大な毛沢東じゃないんだ」と吐き捨てるように言ったという[7]。北京の通りの名前を「反帝路」、香港を「駆帝城」に変えるなど、最初は何のことかさっぱりわからなかったが、1968年10月に劉少奇が失脚したことで毛沢東が復権を画策した権力闘争ではないかとわかったものの、延安時代に結婚を邪魔された旧怨に対する江青の復讐の側面があったことがわかるのには、さらに三年を要したという[8]。
当時は海外メディアが殆ど閉め出された中、朝日新聞社など一部の親中派メディアは、中華人民共和国国内に残る事が出来た。朝日新聞は、当時の広岡知男社長自らが、顔写真つきで一面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事を掲載したが、そこには文化大革命の悲惨な実態は全く伝えられないままであるだけでなく、むしろ礼賛する内容であった。
しかし、その後文化大革命の悲惨な実態が明るみに出ると、これらの親中派メディアを除いて全否定的な評価が支配的となった。それまで毛沢東や文化大革命を無条件に礼賛し、論壇や学会を主導してきた安藤彦太郎、新島淳良、菊地昌典、秋岡家栄、菅沼正久、藤村俊郎、西園寺公一らの論者に対し、その責任を問う形で批判が集中している[9]。
批判者としては、自由主義の立場に立って、反共産主義、反マルクス主義を唱えた中嶋嶺雄、西義之、辻村明らがおり、中国封じ込め政策にも支持を表明した。一方で、丸山昇、野沢豊らの日本共産党主流派に近いマルクス主義者も「礼賛派」がいかに事実をねじ曲げていたかを厳しく批判した。
評論家の大宅壮一は、幼い紅衛兵が支配者に利用されて暴れている様子を「ジャリタレ革命」と批判した。小説家の司馬遼太郎は当初文化大革命に肯定的であったが、中華人民共和国を訪れた際、子供に孔子に見立てた人形を破壊させる光景を目の当たりにし転向し反文化大革命、反中国共産党に転じることになる。
加々美光行は、批判者たちは自由主義と共産主義とで正反対の政治的ないし思想的立場にありながら、そこには毛沢東の政治的保身に発する権力闘争以上のものでないとして歴史的、思想的意義を認めない立場に立っている点で相似していることを指摘したうえで、「文化大革命は、実際に社会主義理念をめぐる対立に由来するものであり、それゆえ、表面的にはともかく深層においては現代中国を呪縛し続けているのであって、文化大革命が提起しながら未決着のまま残された課題は多く、今後、中国の社会主義の動向、とくに民主化をめぐってその課題は再燃するであろう」と予測している[10]。
現在も「文化大革命は世界同時革命の一環であった」として肯定的に評価する少数論者として、新左翼内の文化的過激派であった平岡正明がいる[11]。また民主党の仙谷由人は与党として行った官僚の更迭や事業仕分けについて、「政治の文化大革命が始まった」と発言している[12][13]。
後の中国共産党の対応
1981年6月に第11期6中全会で採択された「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議(歴史決議)」では、文化大革命は「毛沢東が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」として、完全な誤りであったことが公式に確認された。
毛沢東についても、「七分功、三分過」という鄧小平の発言が党の見解だと受け止められている。一応教科書[14]にも取り上げられるが、中華人民共和国は現在も実質上の言論統制下にあるため「四人組が共産党と毛沢東を利用した」という記述にとどまった。
2006年5月、文化大革命発動から40周年を迎えたが、中国共産党から「文化大革命に関しては取り上げないように」とマスコミに通達があったために、中華人民共和国内では一切報道されなかった。このように「文化大革命」に関しては中華人民共和国内のマスコミにとって触れてはいけない政治タブーの一つとなった。
2012年3月15日、重慶で文革時代を肯定する「唱紅」運動を展開していた薄熙来が失脚した(薄熙来事件)。これについて、それに先立つ3月14日、全人代閉幕後の記者会見の席上で温家宝首相は、薄を批判するために「文化大革命のような歴史的悲劇が再び起きることを危惧する」と文革を引き合いに出した。温の発言は「文革が歴史的悲劇である」ということが共通認識であるという前提でなされており、さらに「中国共産党には派閥はない。一枚板である」という原則に従えば、文革終結から36年を経た2012年の時点で「文革は歴史的悲劇」というのが中国共産党での共通認識になっていると言える[15]。
具体的な行為
プロパガンダ
文化大革命時に工場内に加えられたスローガン「毛主席万歳万万歳」 |
個人崇拝
吊るし上げ
旧文化の破壊
紅衛兵らは旧思想・旧文化の破棄をスローガンとした。そのため、中国最古の仏教寺院である洛陽郊外の白馬寺の一部が破壊されたり、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓(定陵、1956年〜1957年発掘)で批判会が開かれ保存されていた万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたりした。
脚注
1. ^ コトバンク> ブリタニカ国際大百科事典小項目事典> 文化大革命とは
2. ^ 『入門中国の歴史-中国中学校歴史教科書』1157頁(明石書店 2001年11月発行)
3. ^ 『解放軍報』(1980年12月9日)の記事「迫害狂・江青」
4. ^ 『毎日新聞』1979年2月5日付記事。
5. ^ 訳文は外文出版社版『毛主席語録』(1966年)による。文章の出典は「湖南省農民運動の視察報告」である。
6. ^ 吴林泉・彭飞 『拨乱反正立丰碑——胡耀邦同志领导平反“六十一人案”追记』 人民日報、1989年6月1日。
7. ^ 岡崎研究所 - 岡崎久彦『「国家情報官」設置のすすめ』(「Voice」 2001年10月号)
8. ^ 岡崎久彦「国際情勢判断半世紀」(育鵬社) P.55
9. ^ 当時週刊朝日にいた稲垣武『朝日新聞血風録』(文藝春秋)も参照
10. ^ 加々美 『歴史のなかの中国文化大革命』(岩波現代文庫、2001年 ISBN 978-4006000448)
11. ^ 平岡正明「若松プロ、夜の三銃士」愛育社
12. ^ “毎日フォーラム:民主政権の課題と自民再生への展望”. 毎日新聞. (2009年11月12日)
13. ^ ヤンヤン (2009年12月9日). “【ワイドショー通信簿】「独法新設おかしい!」仙谷大臣の反論は…” . J-CASTテレビウォッチ (ライブドア) 2010年3月24日閲覧。
14. ^ ちなみに「中華人民共和国は国定教科書制度である」という意見がしばしば見られるが、すでに1980年代後半から教科用図書を多様化する改革が行われ、現在では教科用図書検定制度を導入している。諸外国における教科書制度及び教科書事情に関する調査研究報告書(財団法人教科書センター/2000年3月発行)
15. ^ 『クローズアップ現代』NHK2012年5月21日放送分
16. ^ “文革当時の中国切手1枚に4300万円、香港オークション 写真4枚 国際ニュース”. AFPBB. (2009年11月2日)
17. ^ 景徳鎮磁器 北京観光ウェブサイト 2012年10月23日
注釈
1. ^ 満州にあったハルビン学院や上海にあった東亜同文書院の出身者ばかりであったという。岡崎久彦「国際情勢判断半世紀」(育鵬社) P.54-55
参考文献
文化大革命を描いた作品
小説
映画
関連項目
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