中華民国
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注:このリストは中華民国政府が実効支配している地域(台湾地区)のみのデータである。中華民国の名目的な全領域については、中華民国#地理の欄を参照のこと。
中華民国 |
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中华民国 |
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中華民国(ちゅうかみんこく)は、東アジアに位置する民主共和制国家。
アジアで2番目の共和国[3]として1912年に中国大陸で成立し、1971年まで国際連合安全保障理事会常任理事国であった。国共内戦が終結した1949年以降は台湾島と周辺の島嶼群など(自由地区)を実効支配している。自由地区は、日本やフィリピン、中華人民共和国などと領海を接する。
議会制民主主義国であるものの、中華人民共和国の中国共産党政権と対立していることにより、中華民国を正式に国家として承認している国は多くはないが、以前国交を結んでいた国々を中心に、多くの国と国交に準じた関係を結んでいる。経済的文化的交流については、日本を含めて多くの国々と活発な交流が行われている。日本のメディアでは専ら、台湾島及びその周辺島嶼群を含む地域名である台湾(たいわん)と表記される。
目次
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概要
1912年1月1日に、革命家の孫文を臨時大総統(臨時大統領)として、中国大陸を中心とする中国を代表する国家として成立した。
同年2月12日には、清朝の皇帝である愛新覚羅溥儀が退位することによって、その後袁世凱が大総統(大統領)に就任した。その後、袁世凱と対立した孫文は1919年に中国国民党を創建し、1921年には後の国民政府の基となる革命政府を広州に樹立したものの、1925年に死去した。
1924年には中国共産党との間で第一次国共合作を行ったが、1927年南京事件が起こったことで同年4月に国共合作を解消すると、孫文の後継者となった蒋介石の指揮下で上海や武漢などの各地方で中国共産党員を掃討する運動、いわゆる上海クーデターを起こした。その後国民政府は蒋介石の南京国民政府と、これに反対する汪兆銘らの「武漢国民政府」に分裂するが、間もなく両者は合流、北方軍閥の張作霖が日本軍によって爆殺された後、張作霖の息子の張学良が蒋介石の傘下に入る。
その後、満洲事変を契機に大日本帝国(日本)の後援により、愛新覚羅溥儀を執政として東北部に満洲国が設立され、さらに1937年に起きた盧溝橋事件を契機として、中華民国は日本との全面戦争状態に入った(なお宣戦布告はどちらからも為されていない)。これに対抗して日本軍は、国民党の反蒋介石派であった汪兆銘を首班とした新たな国民政府(汪兆銘政権)を樹立する。その後、1941年12月に日本とイギリス・アメリカ合衆国などとの間で戦争が始まり、英米と友好関係にある中華民国は連合国の主要国として枢軸国と対峙した。
1945年9月2日の降伏文書調印により、中華民国は第二次世界大戦での勝利が決定した。そして、主要戦勝国の1国として国際連合の設立メンバーとなり、GHQからの委託に基づき、1945年10月15日に台湾に進駐した。1945年10月25日に台北で日本側の安藤利吉台湾総督・第十方面軍司令官が降伏文書に署名し、中華民国は光復式典を行って台湾の実効支配を開始した。日本が台湾などを中華民国へ返還することは1943年12月1日のカイロ宣言に謳われているが(ただし、この宣言に有効性はないとする説もある)、この時点では行政権を中華民国に移譲しただけであり、国際法上、台湾島地域は依然として日本の領土であった。台湾光復後の1947年2月28日に二・二八事件が発生した。
しかしアメリカ合衆国政府が支援する中国国民党と、ソビエト連邦政府が支援する中国共産党との間の内戦において、ヨーロッパにおけるソビエト連邦との間の冷戦や朝鮮半島での緊張に気を取られたアメリカ政府による支援が減ったことなどにより、1949年初めには中華民国の実効支配地域が縮小し、1949年10月1日には中国共産党が中華人民共和国を樹立した。
この1949年の12月7日、蒋介石総統率いる中国国民党政府が、首都を中国共産党に実効支配された南京から、臨時首都として台湾島の台北に移転したことにより、台湾島地域および金馬地区などのみを実効支配する国家として、1950年までに再編成された(台湾国民政府)。同時に戒厳体制が発布された(党国体制)。
日本は、1951年のサンフランシスコ講和条約および1952年の日華平和条約において、台湾島地域に対する権原を含める一切の権利を放棄したが、それらの帰属先が明言されていないため、台湾島地域の国際法上の領有権は「未確定である」という見方(台湾地位未定論)がある。
冷戦下の1971年に、中ソ対立の文脈の中で、アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国と、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国との間で政治的駆け引きが行われた結果、国際連合における「中国代表権」が、国際連合総会決議2758によって中華人民共和国に移され、中華民国は国連とその関連機関から脱退した。さらに、1972年にアメリカのリチャード・ニクソン大統領が北京を訪問し、中華人民共和国を承認する意向を見せると、アメリカの影響下にある多数の西側国家がこれに同調し、日本は中華人民共和国を承認し中華民国と断交。その後1979年にアメリカが最終的に中華人民共和国を「中国の代表権を有する正統政府」として承認した。
美麗島事件をきっかけに、1987年に蒋介石の息子で総統職を世襲した蒋経国が戒厳を解除。続いて李登輝政権下の1996年に、国民党一党独裁(党国体制)による寡頭共和制は終わり、複数政党制と大統領制を主体とした民主共和制に変わった(総統民選期の中華民国)。その経済や貿易規模も大きいことなどから、日本やアメリカ、イギリスやフランスなどをはじめとする主要国とは国交こそないものの、形式上非政府組織の窓口機関を通じて外交業務を行っているため、事実上の国交があると言える状態にある。世界貿易機関 (WTO) のように、主権国家ではなく、領域を代表するものとして中華民国政府の加盟を認めた国連機関もある。
21世紀初頭では、大統領制の議会制民主主義を主体とした民主共和制国家として、台湾海峡を挟んで中国大陸と接している台湾島・澎湖諸島(台湾省・台湾地区)および福建省沿岸の金門島・馬祖島(金馬地区)、南シナ海の東沙諸島および南沙諸島の太平島を実効支配している。
アメリカは、第二次世界大戦勃発以来、中華民国と事実上の同盟関係にあり、中華民国が軍事的脅威にさらされた(台湾海峡危機)場合は、台湾関係法に基づき、適切な行動を取ることとなっている。実際に、1996年に行われた総統選挙に伴い、中華人民共和国の人民解放軍(中国共産党軍)が、選挙への恫喝として軍事演習を強行し、基隆沖海域にミサイルを撃ち込むなどの威嚇行為「第三次台湾海峡危機」が起きた際には、アメリカ軍はこれに対して台湾海峡に空母打撃群を派遣し、同国のウォーレン・クリストファー国務長官は「アメリカは必要な場合には、台湾を助けるために台湾に近づく」と中華人民共和国に対して警告した。
2008年3月に行われた総統選挙の際も、台湾近海に空母2隻を派遣した。その総統選挙で当選した馬英九は、2010年に大陸との間で両岸経済協力枠組協議という自由貿易協定を締結、事実上の経済同盟を発足させるなど、2010年代からは中台関係は回復する方向に進んでいる。2014年3月18日から4月10日にかけて、中華人民共和国とのサービス貿易協定の署名を阻むために、学生と市民の一部は、日本の国会に当たる立法院を占拠した。この時点は「ヒマワリ運動(太陽花運動)」という、中華民国の社会運動への端緒にも当たる。、
国名[編集]
中国語(北京語、正体字表記)での正式名称は、中華民國(拼音: Zhōnghuá Mínguó、ウェード式:Chung-hua Min-kuo、注音符号:ㄓㄨㄥ ㄏㄨㄚˊ ㄇㄧㄣˊㄍㄨㄛˊ)であり、国内では中華民國のことを中華と表記することもある。公式の英語表記は、英語: Republic of China(リパブリック・オブ・チャイナ)で、略称は R.O.C. である。
「中華」は、世界の中心にある、もっとも華やかな文明という意味であり、元々は黄河文明発祥の地とされる河南省のあたりを指した言葉であった。ちなみに中華の華はもともと世界の中心の夏(古代の王朝)という意味の中夏だった[4]。
国名表記をめぐる諸問題[編集]
中華民国という国名は、中華民国政府が「全中国(China)を代表する主権国家」であるという認識に基づいている。そのために、1971年に国際連合のアルバニア決議で、中華人民共和国が「全中国を代表する主権国家」として承認されてからは、国際連合機関では「中華民国」 (Republic of China) と称するケースがなくなり、オリンピック(1984年冬季大会以後)などのスポーツ大会や国際機関においては、Chinese Taipei(チャイニーズタイペイ、中華台北)という名称が使用されている。これは、国際連合ならびに同加盟国の多くが、中華民国政府を「全中国を代表する主権国家」として承認しない一方で、台湾地域を実効支配する中華民国政府との非公式関係を維持していることによる。なお世界貿易機関 (WTO) に関しては、Separate Customs Territory of Taiwan, Penghu, Kinmen and Matsu(台湾・澎湖・金門・馬祖個別関税領域、略称:台澎金馬、TPKM)という名称で加盟しており、Chinese Taipei と伴に、中華民国を指す名称として使用されている。
一方、中華民國という国名や Chinese Taipei という名称について、20世紀末以降は台湾地域を中心として反発が生じるようになり、李登輝元総統(任期:1988年 - 2000年)をはじめとする泛緑派の人たちが、中華民國という国号を「台灣」(臺灣)という名称に変更しようという台湾正名運動を興している。これに対し「中国の政党」を自任する中国国民党を始めとした泛藍派の人たちは国号変更に反対しており、この件に関する国論は二分されている。それと同時に、中華民国の民衆の国に対する意識も1990年代から変化し始めていると喧伝される。
このような背景もあり、中華民国政府は2003年9月以後、中華民国旅券に、中華民国の正式名称とともに TAIWAN を付記して発行するようになった。2004年9月7日に外交部 (中華民国)のスポークスマンは「国交のない国に対しては「台湾」を強調することを最優先課題にし、将来的には国交を持つ国との間でも条約文書などで Taiwan を使用し、中華人民共和国との混同を避けるようにしたい」と話し、「9月7日の時点で行政院は、自国の略称として第一に R.O.C. 、第二に Taiwan 、第三に Taiwan, R.O.C. 、第四に R.O.C. (Taiwan) 、第五に TPKM(台湾 Taiwan, 澎湖 Penghu, 金門Kinmen, 馬祖 Matsu)を使用しているが、陳水扁総統の指示があれば使用順位を入れ替えて Taiwan を第一とする」とも話した。
日本における国名表記[編集]
日本語表記は中華民国。マスメディアでは「中華民国」ではなく「台湾」という表記・呼称を使用し、他の国家と併せて数える際は「地域」として中華民国(台湾)を国家に数えないこととしている[5][6][7]。
中華民国を「華」、「台湾」を「台」と略称する例もある。スポーツ関連では上記の通り「チャイニーズタイペイ」を使用することもある。これは主催する団体がチーム名としてこの表記を採用しているためである。旅行業界など経済・文化一般の呼称は大抵「台湾」表記を使用する。
日本国政府は、1972年以降中華民国を国家として承認していないが、サンフランシスコ講和条約において、台湾島一帯の領有権放棄後の帰属については言明していない。日中共同声明でも、日本国政府は中華人民共和国の立場を「十分に理解し尊重する」と表明したが、中華民国および台湾島一帯の地位については明確にしていない。
国旗[
掲揚される青天白日満地紅旗。 |
詳細は「中華民国の国旗」を参照
国旗は青天白日満地紅旗と呼ばれ、平等を表す白、自由を表す青、そして革命に献身した人々の血と友愛を象徴する深紅があしらわれている。
ただし、中華民国を国家承認している国が少ないため、台湾域外の公的な場で掲揚される機会は少ない。オリンピック等の国際的なスポーツ大会へ「チャイニーズ・タイペイ」として出場する際には、梅花旗と呼ばれる旗を国旗の代わりとして使用している。また、台湾独立派(中国人国家の中華民国体制を解体し台湾人国家の建国を目指す人々)には青天白日満地紅旗を外来政権の旗と捉えて国旗と認めていない人もいる。
歴史
· 1912年1月1日:中華民国臨時政府が成立。孫文が臨時大総統職に就任。その後袁世凱が大総統に就任(北京政府)。
· 1916年:袁世凱が中華帝国皇帝即位を宣言するが、内外の反対により断念。間もなく、袁世凱の死去により、各地の軍閥による全面的な内乱状態になる。いわゆる北京政府、北洋軍閥政府が対外的に中国を代表する中華民国政府として1928年まで存続。
· 1920年:ニコラエフスクで赤軍を支援して日本軍を撃破する(尼港事件)。
· 1927年3月:南京事件で国民革命軍が列国の大使館・租界を襲撃し、アメリカ軍・イギリス軍による反撃を受ける。蒋介石は上海クーデターを起こし共産主義者を検挙する。
· 1928年6月9日:蒋介石が中国国民党を支持基盤とする南京国民政府を樹立(首都:南京)。
· 1929年7月:満洲に侵攻したソ連軍によって奉天軍閥が撃破される(中ソ紛争)。
· 1933年5月31日:国民革命軍と日本軍との間で塘沽停戦協定が締結される。
· 1936年12月12日:西安事件により剿共作戦を止め対日戦へ転換。
· 1937年7月7日:日本と南京国民政府との間で日中戦争が勃発。首都南京陥落後、蔣介石率いる南京国民政府は武漢、重慶へ撤退。
· 1938年:日本政府の支援によって、汪兆銘を首班とする汪兆銘国民政府が南京に成立。
· 1943年:アメリカ合衆国・イギリスとの新条約を締結。これにより、約100年に及ぶ治外法権と租界が事実上解消。
先史時代 政治史 参考 その他台湾に関する記事 |
中台両地域統治時代(国共内戦)
· 1945年
o 9月2日:降伏文書に調印。第二次世界大戦における中華民国の勝利と日本の敗戦が決定し、汪兆銘国民政府が崩壊。
o 10月15日:GHQの一般命令第1号に基づき、国民革命軍が台湾に進駐。10月25日に台湾光復式典を開く。
o 10月24日:南京国民政府が国際連合に「中国」代表として加盟し、安全保障理事会における常任理事国の地位を獲得。蒋介石が中国共産党の毛沢東と会談(国共首脳会談)。
· 1946年:国共内戦が激化。南京国民政府が南京に復す。モンゴルの独立を正式に承認(後に取り消したものとされる)。
o 2月3日:国民政府に協力・蜂起した日本人居留民が八路軍に処刑される(通化事件)。
· 1947年:
· 1948年4月18日:動員戡乱時期臨時条款(戒厳)施行。
· 1949年10月1日:ソビエト連邦からの間接支持を受けた共産党軍の反撃を受け、アメリカ政府の支援と援助を受けたにもかかわらず、中華民国軍が敗退。南京国民政府が崩壊。
台湾国民政府時代
· 1949年12月7日:蒋介石、一旦崩壊した南京国民政府を台湾において再始動し、実効統治区域内で「動員戡乱時期臨時条款」に基づく戒厳を発令。
· 1950年1月:蒋介石、総統職に就任。政府の活動が本格化。
· 1952年4月28日:サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日調印)の発効と日華平和条約の調印(8月5日発効)。これらの条約により、日本は台湾の権利、権原および請求権を保持しないことを宣言(ただし、両条約とも台湾の帰属先を明言したものではない)。中華民国政府と日本の国交が成立。
· 1958年:金門県で、中国人民解放軍との間に八二三砲戦が勃発。
· 1971年10月25日:国際連合総会にて、国際連合総会決議2758が可決され、「中国」の代表権を喪失。同時に国際連合から脱退。
· 1972年:日本国と中華人民共和国の国交樹立により日華平和条約が失効。日本との国交を断絶。
· 1975年4月5日:蒋介石総統死去。1978年に息子蒋経国が跡を継ぎ総統となる。
政治
詳細は「中華民国の政治」、「中華民国憲法」、および「台湾問題」を参照
中華人民共和国やベトナムやシンガポール、かつてはインドネシアやマレーシアなど、周辺には実質的な一党独裁制を敷いている・敷いていた国家が多いが、中華民国も例外ではなかった。中華民国では1928年より党国体制が敷かれ、蒋介石とその息子蒋経国による世襲の独裁の下で戒厳が施行され、共産主義政党や本省人による台湾独立や完全選挙(国民大会や立法院での大半の議席は大陸選出枠としてほぼ固定化していた)を求める政党は「国家安全法」と「人民団体法」により存在を許されなかった。このような状況が改められたのは戒厳が解かれた1987年からである。
「二つの中国」
カイロ会談に列席した蒋介石(左)。中央はフランクリン・D・ルーズベルト、右はウィンストン・チャーチル
詳細は「二つの中国」を参照
中華民国の政治において特筆すべきことは、中華民国政府も中華人民共和国の中国共産党政府と同様、自らを「『中国』の正統政府」であるとしている点である。これは、歴代の中華民国政府が、蒋介石率いる中国国民党が中国大陸を統治していた1947年に施行した『中華民国憲法』に基づいて政府を樹立していることに由来しており、1949年の毛沢東率いる中国共産党による北京を首都とする中華人民共和国樹立は「反乱団体(「共匪」)による非合法行為」としてきた。
このような中華民国政府の主張は国際的に受け入れられており、中華人民共和国成立後も国連をはじめとする国際社会における「中国」の代表権も中華民国政府にあった。香港問題を抱え中華人民共和国に対して政治的配慮を必要としていたイギリスを除き、ほとんどの西側諸国が当初は中華民国政府を「『中国』の正統政府」として認めていた。
冷戦下におけるアメリカ合衆国とソビエト連邦を中心とした東西両陣営の政治的駆け引きの中、アルバニア決議によって中華民国政府が国連の中国代表権を失い脱退してからは、西側諸国においても中華民国政府を「『中国』の正統政府」として承認する国が減少した。そのため2010年代では、バチカンやパラグアイ、ブルキナファソなど、22カ国のみが承認しているという状況である。ただし中華民国政府は、日本やアメリカ、フランスなどをはじめとする多くの非承認国にも「台北経済文化代表処」などと称される利益代表部を置いており(中華民国在外機構参照)、相手国も台湾にそのカウンターパートを設置しているため、国際的な交流は一定程度保たれている。
なお中華民国とバチカンの外交関係の歴史は古く、第二次世界大戦中の1942年に確立されている。中華人民共和国は、表向きは中華民国と密接な関係を維持するバチカンに対して批判的な態度をとりながら、裏ではカトリック教会の総本山として世界各国に大きな影響力を持つバチカンとの外交関係の正式な確立を模索してきた。このような状況は当分変化しないと考えられている。
歴代総統
「中華民国総統」を参照
治安・消防組織
台北市警のパトカー |
中華民国において、治安維持及びに消防(救急・救難・防災を含む)業務を担う組織としては下記のものがある。
情報機関
1928年に成立した国民政府は、中国大陸統治時代に各地の軍閥と対峙したほか、日本(抗日戦争)や「共匪」(国共内戦)と長期にわたる軍事衝突を続けていた。また、1949年以降も「一つの中国」(正統な「中国政府」の立場)を巡って中華人民共和国と激しく対峙していたため、国府は敵対組織に対する強力な諜報・防諜能力を必要としていた。このような経緯があり、1990年代の民主化以降も、中華民国には下記の通りに情報機関が存在している。
軍事
詳細は「中華民国国軍」を参照
中華民国国軍
国民革命軍を前身とする中華民国国軍は中華民国憲法第36条に規定されており、中華民国総統が陸海空軍の統帥権を持つ。国防部組織法・国防部参謀本部組織法・国防部政治作戦局組織法・国防部軍備局組織法・国防部軍医局組織法・国防部主計局組織法の所謂、国防六法で定義されている。
中華民国憲法第20条により徴兵制度が敷かれていたが、徴兵規則の変更で2012年1月1日から徴兵を「停止」し、志願制度へ移行中である。[10]当初は2014年に完全な志願制への移行(4箇月の軍事訓練も廃止)を予定していたが[11]、国防部は2016年まで達成不可能としている[12]。
2012年以前の徴兵制度では、満19歳以上の男子国民は、常備兵役として12カ月間の兵役義務(2003年までは22カ月)を有していた。良心的兵役拒否権が認められていた。制度の移行期間中は、1994年1月1日以降に出生した男性については2013年1月1日より4箇月の常備兵役の軍事訓練を受けることにし、1993年12月31日以前に出生した男性については、徴兵を受けていない者あるいはまだ徴兵に就いていない者は、兵役法第25条3項の規定に基づき、1年間の期限で代替役(兵役の代わりに公的機関で勤務)につく。兵役では、基礎訓練と専門訓練をそれぞれ8週間ずつ行う。基礎訓練は1日8時間の計320時間、専門訓練は1日7時間の計280時間。訓練終了後は予備役に編入される。訓練終了時の合格基準は、基礎は腹筋運動と腕立てを2分間25回ずつと19分以内の3000メートル完走、専門段階では腹筋と腕立てを2分間32回ずつと17分以内の3000メートル完走となっている。
中華民国国軍は、正規軍で約30万人、予備役で約180万人の兵力を擁しており、正規軍の内訳は陸軍20万人、海軍4万人(陸戦隊1万5000人)合計5万5000人、空軍5万5000人、憲兵1万2000人である。主力戦車926両以上、駆逐艦・フリゲート艦26隻、潜水艦4隻、作戦機約477機となっている。なお、中華民国国軍の最も重要な軍事基地は中国大陸沿岸の金門島である。米華間の協定である「台湾関係法」や台湾海峡防衛を盾に、アメリカ政府は中華民国政府に強くイージス艦導入を求めている。事実中華民国政府は前向きに検討してはいるが、実現には至っていない。
1949年以降の中華人民共和国との軍事的対立を背景として、中華民国の軍事施設には自国製のみならずフランス製やアメリカ製の最新鋭の兵器、軍用機、軍用船が装備されている。だが、中華民国の国防関係予算が2015年度を基準として過去20年間ほぼ横ばいの増減となっている一方、中華民国と敵対する中華人民共和国が継続的に高い水準で国防費を増加させており[12]、政府は特別予算を組むなどして対応している。将来的には総兵力を27万5000人から21万5000人まで削減し、兵士の専門性を高める予定でいる[12]。女性兵士の割合は7.7%で、女性軍人は約1万5000人となっている。上限は8%だが、将来的には女性定員枠を拡大する方針を明らかにしている。
2015年(民国104年)度の国防関係予算は、3,128億元で、国家予算全体に占める割合は16.17%となっている[13]。過去10年の国家予算に占める国防関係費の比率は2008年以降減少しており[13]、GDPに対する比率も約2%で推移している[14]。
台湾関係法
「台湾関係法」も参照
またアメリカは正式な国交が無いが、中華民国が軍事的脅威にさらされた場合は台湾関係法に基づき中華民国を助けることとなっており、事実上の同盟関係にある。実際に、1996年3月23日に行われた総統選挙の前後に、「独立派」と目される李登輝総統の再選を阻止しようとした中華人民共和国の人民解放軍が、台湾島近海に「実験」と称して弾道ミサイルを放ち軍事的恫喝を行ったことに対し、アメリカ軍は正規空母インディペンデンスとニミッツなどを中心とした艦隊を派遣しこれに対抗した。
国際関係
中華民国(R.O.C.、台湾) |
中華民国が国交を有している国(邦交國)
台湾が代表事務所をおいている国と地域
国家承認している国
詳細は「中華民国の在外機構の一覧」を参照
2014年現在、中華民国を国家承認している国家は22カ国である。「国民政府を認めるか、北京政府を認めるか」という「一つの中国」論により、この22カ国は中華人民共和国とは国交を結んでいない[15]。
オセアニア:6ヶ国 |
ヨーロッパ:1ヶ国 アフリカ:3ヶ国
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ラテンアメリカ:12ヶ国 |
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国家承認をしていないが実質的に国家と同等の扱いをしている国[編集]
国交はないものの、多数の国々と実質的な外交関係があり、その中でも旧統治国である日本や同盟国のアメリカとの関係を重視している。
第二次世界大戦後の1952年に日華平和条約が調印され、日本は中華民国との国交を回復した。しかし、1972年の日中国交正常化により、国交を断絶し、現在は国交がない。ただし、経済交流を従来通り維持させるため、事実上の大使館・領事館の役割を果たす民間の利益代表部(交流協会)を設置し、外交関係を維持している。そのため、両国政府が利益代表部を通じて二国間協定を締結したり、親書の交換がされたりしている。また、超党派の日華議員懇談会を中心にして、議員外交も盛んに行われている。馬英九総統は日台関係を「特別なパートナーシップ」と位置づけ、経済貿易・文化・青少年・観光・対話の5つのテーマを主軸に交流強化を推進している。与野党政治家の往来も活発に行われている。
第二次世界大戦において同盟国として戦い、戦後も国連の常任理事国同士として同盟を結ぶなど深い関係を保ってきたが、1979年に国交を断絶し、中華人民共和国を「中国を代表する政府」として承認しているが、一方で国交断絶前の歴史的経緯から「台湾関係法」を制定しており、台湾を諸外国の国家および政府と同等に扱うことで東アジアの不安定化を防いでいる。台湾関係法では、米華相互防衛条約や原子力協定や武器売却などの、1979年以前に両国との間で締結された条約の全てを有効なものと認めている。与野党政治家の往来も活発に行われている。
冷戦後の動向
李登輝総統(任期:1988年 - 2000年)時代に入り、中華民国政府は中華人民共和国の存在を「反乱団体による非合法行為」と規定しなくなったが、今でも「『中国』の正統政府」という主張は変えていない。そのため、中華民国国内では、「『中国』の正統政府」であることをやめ実行支配地域のみを統治する政府として国家を再編することで、中華民国の新たな国際社会復帰を模索する動きも活発化している。2005年8月1日には、陳水扁総統が「中華民国は台湾」と語っており、中華民国の国家としての定義は国内において二分している状況である。
さらに21世紀初頭では、中国大陸と台湾地域を統治することを前提とした中華民国の国家体制から脱却し、台湾地域のみの統治を前提とした国家を創出する台湾独立運動(台独運動、または台独)も活発化しており、そのことが問題をより複雑化している。もっとも、台湾地域においては、この問題に関するさまざまな意見が存在しているものの、少なくとも台湾地域が中華人民共和国に属するものではないという点では世論の大勢が一致している。そのため、中華民国の立法府たる立法院の議員は、主に「台湾の主権は中華民国に属する」とする泛藍派と、「台湾の主権は中国の国家には属さない」とする泛緑派(台独派)のいずれかに大別される。
世論調査では、早急な統一も独立も望んでおらず、「実質的に共産主義政党の中国共産党による一党独裁国家であり、言論や思想、宗教選択の自由すら許されていない中華人民共和国」と完全に分離して、議会制民主主義体制が堅持されている状態を維持することを望む声が多い。そのため、中華民国の世論は基本的には現状での安定志向にあると言え、各党も世論を配慮しながら政治活動を行っている。
アメリカ、イギリスなどの中華人民共和国と国交のある諸国の政府も、公式には中華人民共和国の唱える「一つの中国」政策を支持しているものの、大統領制議会民主国家を維持することを望む中華民国の国民の意向を尊重することと、中国共産党の一党独裁国家であり、言論の自由が抑圧されている中華人民共和国[16][17]によるアジアにおける軍事的覇権を牽制する意味からも、この状態の維持を事実上支持している。また、日本は中華人民共和国の唱える「一つの中国」政策を「理解し、尊重する」という表現にとどめ、承認しているわけではないが、中華民国との正式な国交はなく、事実上アメリカ、イギリスなどと同様の立場を取っている。なお、第二次安倍政権下では台湾と中国が明確に別の国であるとして取り扱う事が多くなるなど、情勢の変化が起こっている[18]。
2000年代後半に入り、中華民国と国交を有していた中央アメリカのコスタリカが2007年に中華人民共和国と国交を開き、その他パナマ、ニカラグア、ホンジュラスなどの中央アメリカ諸国も世界第二位の経済大国となった中華人民共和国との経済関係を重視する方針を打ち出しているが、中国国民党の馬英九政権の立場を尊重する中国共産党の意向により、中華人民共和国はこれら経済的な関係の深まる中央アメリカ諸国との国交を樹立していない[19]。
地理
中華民国が主張する国土
実効支配域(台湾地区)
領有権を主張する地域
台湾地区の位置図 |
中華民国の主張する国土の総面積は 11,418,174km² である。中華民国の国土は、中華民国憲法増修条文によって下記の通りに区分されている。
詳細は「台湾の地理」を参照
これは、中華民国が清朝の全てを継承した国家という認識によるものであり、中華民国は国交のないモンゴル人民共和国(現在のモンゴル国の前身)の独立を一旦承認したものの、1953年に取り消したものとされてきた(詳細は対モンゴル国関係を参照)。当然2004年に中華人民共和国がロシアと確定させたアムール川の現国境線も認めていない。さらに日本の主権下にある尖閣諸島に1969年、「青天白日旗」を掲揚し、付近海域の石油採掘権をアメリカ企業に与えた上に、1971年6月以降は中華人民共和国による同様の主張に対抗すべく、領有権を主張している。南シナ海の東沙諸島および南沙諸島の全域(九段線)の領有権も主張している。
建国当初の中華民国は中国大陸を領有する国家であり、1895年に日清間で締結された下関条約により、清朝から日本に割譲された台湾島一帯はその版図に含まれていなかった。しかし前述の通り、第二次世界大戦中の1943年に出されたカイロ宣言において同地域は中華民国に返還すべきであるとされている。
中華民国は、1945年の日本の敗戦により、台湾島一帯を「中国の一部」として実効支配下においた。その後、国共内戦の結果、中華民国は1955年までに台湾省(1947年成立)、福建省の一部以外の領地を全て喪失し、1912年の建国から一貫して統治している地は福建省の金馬地区のみとなっている。しかし「『中国』における唯一の正統政府」を自任する中華民国は大陸部の統治権の主張を放棄せず、中華民国政府が発行する官製地図『中華民国全図』には前記地域を中華民国国土として掲載してきた。しかし2004年1月、内政部は、実効支配地域外を含めた『中華民国全図』の新規発行を停止する決定を発表し、今後公式な国土範囲にも変化がある可能性が示唆されている。
気候
台湾島山岳部 |
領土問題[
上記のように、中華民国は中国大陸(中華人民共和国の実効支配地域)、モンゴル、パミールなどを自国の領土であると主張している。中華人民共和国も、台湾および福建省金門県、連江県の領有を主張している。日本の尖閣諸島についても、双方が自国の領土であると主張している(詳細は尖閣諸島問題を参照のこと)。
東沙諸島と南沙諸島については、中華人民共和国と実効支配を、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイとは領有権を争っている。
中華民国の実効支配地域(台湾地区)台湾島
沖縄県への認識
那覇空港行き便の行き先表示 |
中華民国では、沖縄県地域を「琉球」と称することがある。琉球王国がかつて明朝や清朝の冊封国であり、沖縄返還が中華民国政府との協議を経ずに進められたことを中華民国側は不満としていたともいわれるが、中華民国側は、沖縄県地域に対する日本の主権を否定していない[20]。しかし、例えば桃園国際空港の那覇空港行き便の行き先表示は「琉球」(英字表記は「Okinawa」)である。ちなみに香港国際空港から那覇空港行き便の行き先表示は「沖縄島」となっている。
行政区分
949年制定の大陸地区を含めた中華民国の行政区画 |
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中華民国自由地区の行政区分(「釣魚台列嶼」とは尖閣諸島のことだが、領有権については紛争がある→尖閣諸島問題)
概要
中華民国の行政区分は中華民国憲法第11章の条文によって規定されており、第一級行政区分として省と直轄市、蒙古・西蔵の自治区域、及び海南特別行政区[21]が1949年時点で定められていた。
だが、この行政区分は南京国民政府が大陸地区を実効支配している時代に規定されたため、国共内戦で中華民国の実効支配区域が台湾地区のみに狭められると、実際の行政実務(地方自治)との整合性が欠如した内容となってしまった[22]。そのため、中華民国政府は非効率な行政組織の改善を目的として、1997年の憲法増修条文第四次改正で省が持つ地方自治の権限を実質的に廃止し、省政府の機構を行政院の出先機関として中央政府に組み込んだ。1997年の省政府に対する措置を台湾では「虚省化」(省の名目化)あるいは「凍省」(省機能の凍結)と呼んでおり、これ以降の中華民国で台湾省および福建省は地方行政区分として機能していない。
ただし、憲法増修条文によって省の機能に変更が加えられてはいるものの、省という行政組織自体は今なお存続している。また、1949年に南京国民政府が制定した中華民国全土の行政区分についても、直轄市が6市増えた点を除いては変更措置が取られていないため、公式には今なお大陸地区を含めて有効とされている。
なお、中華民国海軍の艦艇の中には、大陸を統治していた当時の地名で、中国大陸の都市に由来する名称を採用した艦艇が存在している(康定級フリゲート等)。また、台北市にはウルムチの旧名である「迪化」に由来する迪化街がある。
主要都市
台湾の主要都市については、台湾の項目を参照のこと。
中華民国自由地区の主要都市としては、台湾島の北部盆地に位置し、1949年から「中華民国中央政府所在地」[23]となっている台北市が先ず挙げられる。台北市は1947年に設置された台湾省の省都も兼ねていたが、省都については1957年に台北市から台湾島中部にある南投県南投市中興新村へと移されている。その他の主要都市には、直轄市の新北市、桃園市、台中市、台南市、及び高雄市があり、いずれも台湾島北部から西部にかけて位置している。
首都[
「総統府」の文字が掲げられている
中華民国の首都は、1931年6月1日から1947年12月24日までは法律で南京と明示されていたが、1947年12月25日以降は正式な首都がどこか法律等で明確にされていない。また、1949年12月7日以降は中華民国の中央政府機構が台北に置かれているが、中華民国政府は歴史的な経緯から台北市をあくまで臨時首都[1]、あるいは「(国共内戦に伴う)戦時首都」[2]と見なしている。以下、中華民国における首都の変遷について述べる。
1912年1月1日の建国時に、孫文は中華民国の首都を南京に置いたが、同年3月10日に北京政府が成立すると首都は北京へと移された。その一方で、北京政府に対抗する国民政府が1925年に広州で樹立さると、第一次北伐(1926年 - 1927年)を経て1927年4月に中央政府を南京へ移転した(南京国民政府の成立)。これにより、中華民国は一時的に首都が2か所となったが、第二次北伐によって1928年6月3日に北京政府が消滅すると、蒋介石政権は6月15日に北京の名称を北平(ほくへい、ベイピン:Běipíng)へ改称し、北京が首都でないことを明確にした。
その後、蒋介石政権は1931年5月12日に憲法制定までの基本法として中華民国訓政時期約法(中国語版)を制定(6月1日施行)するが、同法第五条で「中華民國國都定於南京」(中華民国の国都は南京に定める)と明記し、初めて中華民国の首都を法的に確定させた。
日中戦争時、蒋介石政権は戦局の悪化を受けて1937年11月19日に中央政府の重慶移転を決定し、南京戦で南京が陥落する直前の12月11日に正式な「戦時首都」となった。この過程で、一時的に武漢に中央政府が置かれている。戦時中、日本軍は蒋介石政権に代わる「中国政府」として1940年に汪兆銘政権を樹立し、首都を南京に置く一方、北京にも華北政務委員会を設置した。両者は1945年の日本の降伏直後に瓦壊し、蒋介石政権は戦後処理が一段落ついた1946年5月5日に首都機能を南京へと正式に戻した。
終戦後、蒋介石政権は戦時中に中断していた「中華民国憲法」の制定準備に取り掛かったが、その際に国都(首都)を南京とするか北平(北京)とするかで激烈な討論が巻き起こった。1946年11月15日から南京の国民大会堂(現・南京人民大会堂(中国語版))で制憲国民大会(中国語版)が開催され、憲法の草案として1936年に国民政府が作成・発表した五五憲草(中国語版)が用いられた。草案では第七条で首都を南京としていた[24]が、国民大会での議論を経て一度は北平に改められた。
しかし、国民大会主席団の代表であった蒋介石が、国都は必ずしも憲法で定める必要はないと説明し、一度は国民大会を通過した第七条「中華民國,國都定於北平」(国都は北平に定める)を条文ごと削除してしまった。そのため、中華民国憲法は首都に関する規定がないまま1946年12月25日に制憲国民大会で承認され、1947年12月25日に施行された。憲法の施行と同時に中華民国訓政時期約法も廃止されたため、これ以降中華民国は首都がどこかを規定する法律が存在しない状態になった。
もっとも、国民政府は首都の所在地という名目的な問題を気にしている状況ではなかった。1946年頃から激しさを増していた内戦において、国民革命軍(中国国民党)がソビエトの全面的な支援を得た中国人民解放軍(中国共産党)に次第に勝てなくなっていったからである。中華民国憲法は予定通り1947年12月25日に施行された。しかし1949年1月には戦局が決定的に劣勢となり、同年1月16日に国民政府は中央政府の所在地を南京から広州へ移転することを余儀なくされた。この時点でもはや国民政府に共産党の勢いを止める力はなく、1月31日には北京、4月23日には南京を人民解放軍に奪取され、同年10月14日には広州も陥落した。中央政府機構は陥落前日に所在地の広州を辛くも脱出できたが、人民解放軍に追われるままに重慶(同年10月13日)、成都(11月29日)と中央政府の所在地を次々と移転し、ついには1949年12月7日に大陸を脱出して台北へと移転することとなった。
台北移転当初、台湾国民政府は「全中国を代表する国家」という立場から台北遷都を一時的なものとし、「大陸反攻」(武力による大陸部の奪還)後に再び中央政府所在地を南京に戻すつもりであった。この理由により「公式な」首都は南京のままとされ、台北は事実上の「臨時首都」という扱いとなった。しかし第二次世界大戦後の冷戦体制が確立されると、両岸関係の劇的な変化を回避することを望む国際環境下で「大陸反攻」が絶望的になり、1971年に中国代表権問題に関わる国際連合総会決議2758により国際連合における代表権を喪失した後は、中華人民共和国を「全中国を代表する国家」として政府承認する方針が国際的な主流となり、中華民国は外交上孤立していくこととなった。中華民国政府はこの状況下でも「全中国を代表する国家」という立場を今日まで固持し続けており、そのために事実上の首都である台北の扱いも「臨時首都」および「中央政府所在地」のままとなっている。
上記の政府見解を反映し、中華民国の小中学生向けの国定教科書でも南京を首都とした記載が続けられてきたが、台湾独自路線を追求する民意の高まりとその結果の民進党(中華民国)政権の誕生の結果の一つとして2003年版教科書(『認識台湾』)からは台北を首都とする記述が登場し、教科書における状況変化が見られる。しかし「首都・台北」と表記した場合、台湾独立政策の体現とし中華人民共和国との軋轢が生じる可能性を考慮され、教科書では「中華民国の中央政府は台北にある」という間接的な表現をしている。
2016年現在、中華民国教育部が編纂・公開する『重編國語辭典』[25]では、首都と同義語の「國都(国都)」の項目において、南京を「国都」、台北を「中央政府所在地」と解説している。
ちなみに、2016年5月に退任した馬英九前総統は同年8月に母校の台湾大学で行った講演の中で、「(中華民国の首都は)ここ、台北だ」と発言した[26]。馬前総統は「中華民国の首都」について質問したソウル大学の学生に対し、「(国民政府が中国大陸から台湾に移転した)1949年より前の首都は南京だが、今は台北だ」と説明した上で、「首都とは中央政府の所在地で、その中央政府は現在台北にある」と発言したという。
経済
詳細は「台湾の経済」を参照
高雄港 |
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台南サイエンスパーク |
2009年のGDPは3785億ドル(約32兆円)であり[27]、神奈川県とほぼ同じ経済規模である[28]。しかし、2011年には5046億ドルになり、しばらくは増え続けると予想されている。
1912年の中華民国の成立当初、清朝の対外賠償金を継承し、鉄道や税関などの収入源を賠償金の担保として列強の支配下に置かれていたため危機的な経済状況にあった。
建国当初の政争に加え、中国共産党軍との対立、さらに日中戦争と国内での混乱が続いたことで経済状況が悪化し、物資が軍需用として優先使用され、その物資の輸送も限定された交通手段に頼っており国民経済は困窮を極めた。
1945年の第二次世界大戦終結により、特に満洲および台湾では大日本帝国が遺した資産を活用した工業化などによる経済建設を計画したが、まもなく開始された国共内戦により経済政策の実施は頓挫、国民党が行った紙幣の濫発による急激なインフレなどで台湾地域の国民経済は崩壊の淵に立たされることとなった。
1949年に国共内戦に敗れ、領土を台湾のみに縮小された国民党政府は「大陸反攻」を実現すべく国力の充実を図り、経済方面でも濫発した貨幣(国民党軍が発行した旧台湾ドル)を廃してニュー台湾ドルを発行しインフレを抑制、傾斜生産方式を採用した工業化を図るとともに、冷戦下のアメリカからの経済援助を活用しての経済政策を実施、それまで農業と農業関連の加工業が主であった台湾の経済を軽工業、やがては重工業へと転換させることに成功し、現在ではアジア有数の先進工業国としての地位を確立、特にパーソナルコンピュータやマザーボード、液晶、レーザーモジュールやなどの高度な技術開発力を必要とする情報技術関連機器や、自動車やオートバイとその部品、付加価値の高い自転車、家電製品とそのための電子部品をはじめとする製造業、海運や航空業でその強みを発揮し、世界トップクラスの外貨準備高を擁する経済大国へと変貌している。
2000年代以降は、中華人民共和国やインドなどの、低賃金の単純労働力を提供する発展途上国の台頭によって、高度な開発、生産力を必要としない製造業においては、工場の海外進出に伴う産業の空洞化が進行したが、これに対し政府は情報技術へのさらなる投資とあわせて、バイオ産業などより高い技術を有する産業に重点を置く政策に転換しつつある。
世界中に広がる華僑ネットワークに駆使した世界戦略も強みである。アメリカや日本で注文を取り、中華人民共和国やベトナムに製造させる仲介的戦略も、この華僑ネットを利用している。近年は高雄港や基隆港、台中港が中国大陸や東南アジア、および太平洋地域における海運の重要なハブとしての地位を獲得しており、コンテナ取扱高世界一を誇る一大海運企業である長栄海運などがそれを後押しする形となっている。
中華民国の経済は日本経済との共通点が多い。資源小国であることから技術力、工業生産力に依拠し、世界市場で優位に立てる高付加価値製品を開発製造することによって、外貨を獲得する加工貿易が基本である。独立志向の強さが国民性であり、それが経済に活力を与えると同時に、大企業の成長に必要な人材の確保が困難な一面もある。
1000万人以上の観光客を目標にした観光戦略を打ち出し、2010年に中華人民共和国と締結した海峡両岸経済協力枠組協議や日台投資協定・日台オープンスカイ協定締結などにより2011年には600万人以上の観光客が訪れた。そして、外貨収入は1兆円を超えている。
シンガポールなどとの自由貿易協定 (FTA) や環太平洋戦略的経済連携協定 (TPP) 参加を検討しており、経済自由化や金融緩和にも力を入れるとされている。2011年の失業率は4.39% (49万1000人) になっており、経済協力開発機構 (OECD) 平均と比較しても大きく下回っていて、雇用も比較的安定している。
日本経済との関係
中華民国と日本とは、実効統治する台湾がかつて日本領であったなど歴史的に関係が深く、地理的に近いことから、貿易をはじめとした経済的交流が非常に緊密である。その象徴として、台北の台北国際金融センタービルは日本の熊谷組を中心としたJV(共同事業体)が施工しているほか、日本の新幹線の信号・車両技術を導入した台湾高速鉄道(台湾新幹線)も台北〜左営(高雄市)間に運行中である。多くの日本企業が進出しているだけでなく、中華民国の企業も日本に進出するなど、経済的交流は年々強まっている。工業団地に日本企業を積極的に誘致を続けている他にも、中華人民共和国に日本企業が進出する際に、台湾企業と組むケースが多くなっている。
2011年現在、日本は台湾にとって最大の輸入先であり、日本から台湾への投資件数もトップであり、台湾にとって2番目の貿易相手国である。台湾は日本にとって4番目の貿易パートナーである。
中華民国の代表的な大企業
交通
「台湾の交通」を参照
国民
国民の定義と人口
台湾の人口ピラミッド |
中華民国の国民は、中華民国憲法第3条の規定によって「中華民国の国籍を有する者」とされており、2011年の時点で 2322万4912人となっている。人口密度は平均 636.82人/km²(2011年)である。
民族と省籍矛盾
中華民国の国民は大きく漢民族と原住民族にわかれる。中華民国政府が認定した原住民族は、2008年現在で14民族50万人弱であり全人口の約2%である。中華民国では、国民である国内各民族が融合して中華民族を形成するとされており、中華民国憲法第5条によって各民族間の平等が定められている。また中華民国国民には省籍が存在し、在籍する省によって本省人と外省人に分けることがある。原住民族は広義には本省人に含まれるが、通常は分けて考えられる。この区分に従うと、中華民国編入後の台湾島一帯では、人口が多い本省人が政治的には少数派の外省人に支配される構図が浮かび上がるが、これは省籍矛盾と呼ばれ、長年にわたり社会問題とされてきた。
客家と移民
広義の客家人は約500万人であり、全人口の約22%である。中華民国に帰化している人口は7万1398人であり、全人口の約0.3%である。
新移民(外国籍)
外国籍配偶者の数は約40万人で中国とベトナム国籍(在台ベトナム人)が最も多く、約8万6000人であり他にはタイ・インドネシア・フィリピンの順である。外国籍の人口は約65万人である。
言語
詳細は「台湾#言語」を参照
中華民国の公用語は国語と称されている。国語は基本的には中華人民共和国で使われている普通話と同一言語とされるが、21世紀初頭では政治・文化・社会の違いにより語彙や発音などの細かい部分に多少の相違点が生じているため台湾国語や台湾華語と称されることも多い。
正体字(繁体字)と呼ばれる簡略化されていない漢字の字体を標準としている。これは日本の旧字体に近いが、中華人民共和国で大幅に簡略化された簡体字とは大きく異なる。ただし実際の生活においてはある程度の略字や俗字が使用されている。漢字の発音表記には北京政府時代に制定された注音符号を教育で使用しており、コンピュータやスマートフォンへの入力に広く用いられている。
宗教
詳細は「台湾の宗教」を参照
教育
詳細は「台湾の教育」を参照
中華民国は教育制度として国民小学(小学校)6年間と国民中学(中学校)3年間が義務教育とされている。21世紀初頭では小中学をあわせた「九年一貫課程綱要」に基づいてカリキュラムが編成されている。儒教圏の例に漏れず学歴社会であり、高等教育を受ける者が多い。
民主化後、国語以外の言語、すなわち台湾語、客家語、台湾原住民語の教育が義務付けられたが、中国国民党による戒厳令時代はすべて国語のみで教育することとされていた。このため、1920年代生まれ前後の世代は台湾語(または客家語)のみで国語が話せない者がおり、その下の世代では両方を解するが、1950年生まれ世代前後以下では標準語のみで台湾語を解しない者が少なくない(特に北部の都市部)。たとえ話せたとしても発音に標準語の訛りがある場合も多い。
従って同じ「台湾人」でも高齢者と若者との間でコミュニケーションが成り立たないということも珍しくない。日本統治時代には日本語での教育が義務付けられていたため日本語を話すことのできる高齢者も多い。
医療
詳細は「台湾の医療」を参照
文化
詳細は「台湾の文化」を参照
代表的な文化施設
台北市の中正区にある中正紀念堂は、1975年に死去した初代総統・蒋介石の業績を称えるために建てられた高さ70メートルの建築物であり、紀念館の外観には中華民国の思想が視覚的に反映されている。
国立故宮博物院
台北市の士林区にある国立故宮博物院は、国共内戦に敗れた中華民国政府が台湾へと撤退する際に、北京の故宮(旧紫禁城)と南京の中央博物院から持ち運んだ中国歴代の貴重な美術品を収納・展示している博物館である。
国立故宮博物院のコレクションは、宋、元、明、清の歴代宮廷の収蔵文物を継承しており、その内容も数も極めて豊富である。これらの文物の発展は、近代中国社会の変遷と密接な関係がある。中華民国が建国されて13年後、清朝を退位した溥儀皇帝を紫禁城から追放し、宮廷にあった文物を点検すると同時に、故宮博物院を設立した。
1925年10月10日、故宮博物院が正式に設立された。この時から、歴代皇室と宮廷が所蔵していた貴重な文物は、中華文化遺産として永く後世に伝えられることとなり、全ての人々が自由に宮廷に出入りし、国の至宝を鑑賞できるようになった。初代院長は易培基(1880-1973)氏で、1925-1931年は北京故宮博物院の啓蒙の時代であるといえる。
象徴的な施設
桃園県にある台湾桃園国際空港 は、中華民国最大の国際空港である。以前は、中華民国の初代総統である蒋介石の本名から取った中正国際空港(英語名は蒋介石の英語 Chiang Kai-Shekの頭文字からC. K. S. airport、チャイナエアラインの機内放送(日本語)では「蒋介石国際空港」と紹介していた)であった。しかし台湾の民主化および複数政党制の導入を経て、さらに中国国民党が下野してからは、この名称を用いることに批判的な論調が増え、最終的に2006年に台湾桃園国際空港と改称された。
台北市信義区にある超高層ビル。高さ508mで地上101階+地下5階から成る。旧称は「台北国際金融センター(臺北國際金融大樓)」。7年間の工期を経て2004年、それまで世界一だったマレーシア(クアラルンプール)のペトロナスツインタワーを超える建築物として竣工した。コンサートやイベントで使用される「台北南港101」は、これとは別の施設。
道路名
中華民国の道路名は、「中山路」(中山は国父とされる孫文の中国語圏で最も知られる名前)、「中正路」(中正は初代総統である蒋介石の本名)といった国家指導者の名を冠したものや、「民族路」、「民權路」と「民生路」といった国家の基本思想である三民主義に基づくものが多数を占めている。ただ、21世紀初頭では中華民国の「台湾化」の影響から、台湾原住民族の名に由来する凱達格蘭大道(ケタガラン大道の意、台北市)のように台湾に由来のある道路名も登場している。
食文化
世界遺産登録
詳細は「台湾#世界遺産候補」を参照
中華民国は、国際連合から脱退しているため、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)への加盟を認められておらず、世界遺産が一つも登録されていない。しかし、陳水扁政権発足後から、行政院を中心に世界遺産登録を目指す動きが活発化しており、2003年には世界遺産登録候補地として12か所が選定されている。
暦と祝祭日
中華民国では、建国年である1912年を元年とする民国紀元を西暦と併用している。民国紀元は中華民国における行政の公式暦法とされ、一般に誕生年も「民国N年」「民前N年(1911年以前)」と表現される。民国紀元も太陽暦によるが、祝日(國定假日)、民間の年中行事は旧暦で行うものもあり、日常生活では併用されている。2016年完全週休二日制度を実施した。合計9日の祝日がある。
脚注
1. ^ a b 台北案内-歴史と政治 (公益財団法人交流協会台北事務所)
2. ^ a b 臺灣簡史>國際危機與兩岸關係(中華民国行政院新聞局)
3. ^ アジア初の共和国はフィリピン第一共和国であると見なす場合。ただし、当時のフィリピンはスペインの植民地支配からアメリカの植民地支配下への移行期間にあり、アメリカの支配下から脱し切れていなかったため異論がある
4. ^ NHKスペシャル「中国文明の謎」第1集「中華の源流・幻の王朝を追う」(2012年10月14日放送)の中で、「夏 (三代)」王朝の夏が「華」に変化したという内容がある。
5. ^ 時事通信社『最新用字用語ブック』第6版 624ページ
6. ^ 共同通信社『記者ハンドブック』第12版714ページ
7. ^ 『朝日新聞の用語の手引』2010年 571ページ
8. ^ ソ華友好同盟条約(「ソヴィエト」社会主義共和国聨邦中華民国間友好及同盟条約) 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
10. ^ ただし、2012年以降も「4箇月間の軍事訓練」を受ける義務は残っているので、本来の意味での徴兵制廃止ではなく、実質的には「兵役期間の1年から4箇月への短縮」である。
11. ^ 台湾:2014年末までに徴兵制廃止—緊張緩和などで(サーチナ)
12. ^ a b c 平成27年版防衛白書 第1章第3節-4 台湾の軍事力など(防衛白書)
13. ^ a b 中華民國104年國防報告書 第三編第六章第二節 策劃國防財力(中華民国国防部の防衛白書)
14. ^ SIPRI Military Expenditure Database(ストックホルム国際平和研究所)
15. ^ “中華民国(台湾)と外交関係を持つ国(邦交國・22カ国) (PDF)”. 日本李登輝友の会 (2008年1月15日). 2012年2月18日閲覧。
16. ^ IDG Japan (2004年6月15日). “中国政府、Chinese Wikipediaへのアクセスを遮断”. ITmedia ニュース (アイティメディア)年 20122月18日閲覧。
17. ^ ロイター (2009年6月3日). “天安門事件の記念日を前に、中国でTwitter遮断”. ITmedia ニュース (アイティメディア). オリジナルの2009年6月11日時点によるアーカイブ。 2012年2月18日閲覧。
18. ^ “民進党の政権復帰と両岸関係(下)慎重だが日台関係強化に期待当面は「冷たい平和」維持かメールマガジン「オルタ」” . 海峡両岸論65号. (2016-04-XX)年 20164月23日閲覧。
19. ^ “アングル:中国と経済的な関係深める中米諸国、台湾の孤立化進む恐れロイターニュース国際” . 朝日新聞デジタル、ロイタージャパン. (2013年8月7日)年 20138月12日閲覧。
20. ^ “中琉協会の名称変更中国時報「沖縄は日本の領土」” . 琉球新報 (琉球新報社). (2006年5月31日). オリジナルの2011年7月22日時点によるアーカイブ。 2012年2月18日閲覧。
21. ^ 行政院直属の区域。ただし、中華民国憲法上に特別行政区に関する規定はない。
22. ^ 台湾地区と台湾省の範囲がほぼ重なるため、中央政府と台湾省政府の管轄区域もほぼ重複してしまい、省単位での地方自治が事実上機能しなくなっていた。
24. ^ 第七條 中華民國,國都定於南京。(中華民国の国都は南京に定める。)五五憲草(ウィキソースより)
25. ^ 教育部重編國語辭典修訂本
26. ^ 馬前総統、「中華民国の首都は台北」学生への回答で明言/台湾
参考文献
関連項目
外部リンク
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政府
· 我的E政府 - 中華民国の政府総合サイト (中国語)(英語)
· 中華民国総統府 (中国語)(英語)
· 台北駐日経済文化代表処 - 実質的に日本における中華民国の大使館、領事館の機能を果たす (日本語)
日本政府
· 日本外務省 - 台湾 (日本語)
· 公益財団法人交流協会 - 実質的に中華民国における日本大使館の機能を果たす
観光
· 台湾交通部観光局 (中国語)(英語)(日本語)(朝鮮語)(ドイツ語)(フランス語)(スペイン語)(オランダ語)
· ウィキボヤージュには、中華民国に関する旅行情報があります。
· ウィキボヤージュには、中華民国に関する旅行情報があります。
その他
· JETRO - 台湾 (日本語)
· "Taiwan". The World Factbook. Central Intelligence Agency. (英語)
· 中華民国 - Open Directory Project (英語)
· 中華民国のウィキメディア地図 (英語)
· オープンストリートマップには、中華民国に関連する地理データがあります。
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先代: 日本統治時代 |
中華民国 |
次代: - |
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|
座標: 北緯23度30分東経121度00分 北緯23.500度東経121.000度
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