燕山君
燕山君 |
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各種表記 |
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ハングル: |
연산군 |
漢字: |
燕山君 |
発音: |
ヨンサングン |
日本語読み: |
えんざんくん |
ローマ字: |
Yeonsan-gun |
燕山君(ヨンサングン、えんざんくん、成化12年10月7日(1476年10月24日) - 正徳元年11月6日(1506年11月20日)、在位:1494年12月29日 - 1506年9月2日)は李氏朝鮮の第10代国王。第11代国王中宗の異母兄。名は㦕[りっしんべんに隆](以下の記述には代字として「隆」の字を使用する)。第7代国王世祖の曾孫で、朝鮮王朝史上前例のない暴君とされる。その暴虐じみた生涯故に近年では「朝鮮のネロ」と称されることも決して少なくない。
目次
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生涯
誕生から即位
第9代国王成宗の長男として生まれた。母は廃妃尹氏(斉献王后)。生母尹氏は、成宗の最初の王妃であった恭恵王后・韓氏が1474年に死去すると1476年に正妃の位に登ったが、その3年後に王妃から嬪の位に降格された。さらには成宗の顔に傷をつけたため、1482年、王命により賜薬(死薬)を下され28歳でこの世を去った。
その後、長男であった隆は、1483年に7歳で王世子(王太子)に冊封されたが、だが、1494年成宗が薨去すると、18歳でそのまま王位に登った。王妃は居昌慎氏。
即位当初は、学問を奨励した成宗時代の気品と秩序は維持されていた。燕山君は貧民を救済して、「国朝宝鑑」など多くの書籍を編纂し、女真族などの外勢の侵略を阻んで城を築くなど、安定した政治を行った。
背徳政治と苛烈な粛清、そして失脚
しかし時がたつにつれて、治世4年後から燕山君の悪行が目立ち始めた。燕山君は3度にわたって功臣に対する粛清事件(士禍)[1]を引き起こした。また戚臣の任士洪(韓国語版)(イム・サホン)と宦官(内侍)の金子猿(韓国語版)(キム・ジャウォン)がそれぞれそそのかして、生母尹氏誅殺に関係した者を捕らえて処刑している(甲子士禍)。
燕山君は全土から女性を徴発し、世祖が建てた円覚寺(現在のタプコル公園)を王の享楽の場である掌楽院に変え、最高学府の成均館も妓生らとの遊興の場に変えた。燕山君は多数の妓生を引き連れて遊興にうつつを抜かし、諫言する功臣たちはことごとく残酷な刑罰で処刑した。臣下たちの怒りが頂点に達した結果、彼らの確執と離反を招く結果となり、1506年9月2日に勲旧派勢力の朴元宗(パク・ウォンジョン)、および成希顔(韓国語版)(ソン・フィアン)、柳順汀(韓国語版)(ユ・スンジョン)らが企てた宮廷クーデターによって燕山君は失脚し、江華島に配流、王位を剥奪されて燕山君に封じられた。この時任士洪、金子猿、更に燕山君の寵姫である張緑水(チャン・ノクス)は反対勢力の手によりそれぞれ斬首刑となっている。また正妃慎氏も同時に廃位され、残された王子たちは全て処刑され、更に残された王女たちは全て奴婢にされた。
配流からおよそ2ヶ月後、燕山君は数え年の31歳(満30歳)で死去した[2]。後世の第15代国王・光海君と同様、廃された王であるため、諡号はない。後継には成宗の次男で燕山君の異母弟である晋城大君(チンソンデグン)懌(即位して中宗)が推戴された。
宗室
后妃
王子
王女
燕山君が登場する作品
脚注
1. ^ 1498年の戊午士禍、1504年の甲子士禍、1506年の丙寅士禍
2. ^ 配流先の江華島で原因不明の潰瘍により吐血し、急死したという説もある。
関連項目
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