漢民族
漢民族 |
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上段から左から右:蒋中正、嬴政、 |
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総人口 |
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1,453,516,512 |
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居住地域 |
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1,349,585,838[1] |
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-- 香港 |
7,182,724[2] |
-- マカオ |
433,641[3] |
23,299,716[4] |
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6,590,500[8] |
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75,000 - 100,000[29] |
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言語 |
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宗教 |
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漢民族(かんみんぞく)は、中華人民共和国(中国大陸)、中華民国(台湾)、シンガポールで大多数を占める民族。人類の20%を占める世界最大の民族集団である。
中華人民共和国の民族識別工作では漢族と呼ばれ、中華人民共和国の人口の94%以上を占める。漢人ともいい、華僑として中国を離れ、移住先に定着した人は華人、唐人と自称することが多い。
目次
漢民族の形成
漢民族の由来は中国の漢の時代に遡る。
シンガポール日本文化協会会長 顔尚強によれば、「漢民族はその昔、漢民族とは称されておらず、華夏族と称されていた。漢民族という名称は漢王朝(BC 206~AD 220)の時代から今日まで使われてきてはいるが、今でも本土の中国人は中国のことを華夏、中華文明を華夏文明と呼ぶことがある。学者によると、周王朝(BC 1066~BC 256)の創立者である周武王が商王朝(殷王朝ともいわれる。BC 16世紀~BC 1066)の末代の商紂王を討ち取った後中原に定住し、その一族を中国の伝説上の先聖王である神農・黄帝・堯・舜をちなんで「華族」と称した。また夏王朝(BC 21世紀~BC 16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている」[要出典][6]という。
紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一し、ばらばらとなっていた華夏族が統一となり、その後の漢の時代に文明が高度に発達した。漢の時代は前漢及び後漢合わせて408年間にも及び、版図が空前に拡大し、文化も高度に発達した。この時期の華夏族は周辺民族から「漢人」と呼ばれ始めた。これは漢族の由来である。漢民族は漢の時代に形成し、その後幾度の民族融合及び異民族の漢化を経て現在の漢民族を形成した。[要出典]
林惠祥は著書『中国民族史』で漢民族は華夏族を中心として東夷系、荊呉系、百越系及び東胡系、匈奴系などの民族を吸収し形成した民族であると論じている。黄河の上・中流を中心に居住していた華夏系は黄河の下流の東夷系、長江の中流の荊呉系及び珠江を中心とした百越系と融合及び統合のプロセスを通して漢民族に生まれ変わったわけである[7]。
漢族に典型的な遺伝的血統があるわけではなく[8]、その実体は漢字の黄河文明を生み出した中原と周辺の多民族との間で繰り返された混血。ゆえに、異民族の出身であっても漢族の文化伝統を受け入れれば、漢族とみなされる。実際、漢民族は現代に至るまでの長い歴史の間に五胡、契丹、満州、モンゴルなど、多くの民族との混淆の歴史を経て成り立っている。
漢民族という言葉の下敷きとなった漢朝(前漢・後漢)では最盛期には人口が6000万人を数えたが、黄巾の乱や三国鼎立の時代、さらには八王の乱・永嘉の乱など後漢末からの社会的混乱や天候不順のため、中原の戸籍に登録されている者は500万人を切った。この後は、次段落にあるように北族の時代を迎え、岡田英弘はこの時点でオリジナルな漢民族は滅亡したと主張している[注 1]。
4世紀頃から北方の鮮卑などの北方遊牧民族に華北平原を支配され(→五胡十六国時代)、この結果、中原に居住していた民族の一部は南方に移動(→客家)した。最終的には北方民族は漢語をはじめとした漢風の諸習俗を受け入れた。隋唐時代の初期に多大な犠牲を払って完成した大運河は、物流のみならず人的・文化的にも中国大陸の南と北を強く結びつけ、中華地域の一体化に大きく貢献した。また、のちの遼や金、元や或いは後金やその後身の清などといった征服王朝期は、中華文化は北方の草原文化を取り込む機縁ともなった。[要出典]
漢民族の民系及び方言
漢民族の大膨張
いわゆる漢民族と現在分類される人口は、唐代頃までに現在の中国内地(チャイナ・プロパー)まで拡張し、その後は国家の繁栄と戦乱に伴って同領域内で大きく増減を繰り返すにとどまった。これは清代中期までは江南・湖広の生産力にまだまだ人口を支える余力があったこと、明・清王朝は長らく海禁政策を採用したこととが大きな理由として挙げられる。加えて、異民族王朝である清朝は満州(現在の中国東北部)・内モンゴル・新疆などへの漢族の移動まで禁じ、意識して漢民族の膨張を抑止しようとした。結果として、後に民族間の軋轢を生んだ。
19世紀以降の漢民族
ところが、清代中期以降状況が大きく変化する。領域内の平穏と安定した経済、トウモロコシやサツマイモ等の新たな農業作物によって増え続けていた人口だったが(18世紀前半には推定2億人だった人口はわずか100年後の19世紀前半にはその2倍、推定4億人を突破したとされる)、イギリスなどの政策転換による銀の流入の減少(阿片戦争参照)、18世紀後半以降の全地球単位の寒冷化(異説もある)に伴う生産力の低下、さらに、太平天国の乱などの清末の一連の反乱により支えきれなくなった。ついに、19世紀後半には人口爆発とも呼べる事態が発生、大量の漢民族の周辺地域への拡散移動が始まった。
河北・山東など華北の人口は内モンゴル・満州へ移動し、華南の人口は東南アジア各地を中心に、一部は日本・朝鮮、さらにはアメリカ・オーストラリアなどに移動した。このうち、満州(現在の中国東北部)は中国内地との隣接区域であり、圧倒的な漢民族の人口圧によって事実上内地化した。例外的に、地理的に中国本土と最も地理的・文化的に近接しているはずの韓国のチャイナタウンについては、20世紀半ばから後半期にかけて衰退し、ついには消滅してしまった。理由として、朴正煕時代などの強い民族主義・反共主義政策などが挙げられるが、極めて特異な例として注目される。
東南アジアの華人
東南アジアなどでは華僑・華人となり、自らの居住区として各地にチャイナタウンを作り上げている。シンガポールでは華人が最多数派である。マレーシア・インドネシアでは、かつて経済の主導権を握っており、そのため現地で多数派を占めるマレー人など在来民族との摩擦があった。
タイの華人はタイ人に同化する傾向が強く、また、タイ人の中にも中国由来の文化が取り入れられ、経済的にも政治的にも完全にタイ人と一体化している。政府の要職を占める華人も少なくない。
フィリピンでも華人はフィリピン人に同化する傾向にある。明・清時代からの古い華人が多く、現地化や混血が進んでいる。現在でも中国語を話し、中国の習慣を残している者は60万人から100万人程度と推定される。
ミャンマー(ビルマ)では、おもに国共内戦期以降のKMT残党の逃避行に始まる雲南省からの華人の流入が今でも続いている一方で、前近代から移住してきた土着の華人のグループもある。彼らはミャンマー中央政府から先住少数民族と認められ、「コーカン族」と称されている。コーカン族の主な居住地はシャン州北部の雲南省との国境地帯であり、コーカン地区と称される。
遺伝子
漢民族のY染色体ハプログループはO2系統が圧倒的多数を占め、最大65.7%[9]観察される。その他のY染色体ハプログループに関しては地域差が激しいが、オーストロネシア語族との関連が想定されるO1a系統も一部(特に上海を中心とする華東地方)で多く観察される(華東地方出身者167人中40人、即ち24%のサンプルに観察された例がある[10])。両広地方(広東省及び広西チワン族自治区)の一部ではO1b1系統(オーストロアジア語族と関連)も約30%観察されている。[11][12] C2系統は中国東北部(旧満州)の漢族では約17% [15% ~ 23%]、華北の漢族では約14% [11% ~ 18%]、華南の漢族では約7% [0% ~ 22%]観察された例がある。[13]
脚注
注釈岡田の中国論は戦後公職追放によって親中国派ばかりとなった国内の中国史学会の中では特異なものであり、日本の中国史学界において同様の立場からの論者はほとんどいない。しかし岡田の研究は現在では中国でも話者が殆ど失われた満州語で残された記録を掘り返す事で調査された研究であり、毛沢東指導による戦後に書かれた中国史とは当然に異なると述べている。 『だれが中国をつくったか』(PHP新書)のあとがきで参考文献を「私以外に、このような中国論を展開する人はいないために、自分自身の著書ばかりであるが、諒とせられんことを請う」と述べ自身と弟子で妻でもある宮脇の著作を紹介している。
出典
1. ^ Travel China Guide - Han Chinese
2. ^ Windows on Asia - Chinese Religions
3. ^ China - Travel China Guide - Religions and Beliefs
4. ^ Every Culture - Han people: Religion and Expressive Culture
5. ^ Every Culture - Han Chinese in the People's Republic of China
6. ^ 「華人社会について」シンガポール日本文化協会会長顔尚強 [リンク切れ]
7. ^ 『中国民族史』 1930年商務印書館出版
8. ^ 中央日報(日本語WEB版)『中国に純粋血統の‘漢族’は存在しない』2007年2月15日
9. ^ Yali Xue et al 2006, Male demography in East Asia: a north-south contrast in human population expansion times
10. ^ Shi Yan, Chuan-Chao Wang, Hui Li, et al., "An updated tree of Y-chromosome Haplogroup O and revised phylogenetic positions of mutations P164 and PK4." European Journal of Human Genetics (2011) 19, 1013–1015; doi:10.1038/ejhg.2011.64.
11. ^ Hammer MF, Karafet TM, Park H et al. (2006). "Dual origins of the Japanese: common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes". J. Hum. Genet. 51 (1): 47–58. doi:10.1007/s10038-005-0322-0. PMID 16328082.
12. ^ Rui-Jing Gan, Shang-Ling Pan, Laura F. Mustavich, et al., "Pinghua population as an exception of Han Chinese’s coherent genetic structure." Journal of Human Genetics (2008) 53:303–313. DOI 10.1007/s10038-008-0250-x
13. ^ Hua Zhong, Hong Shi, Xue-Bin Qi, et al., "Global distribution of Y-chromosome haplogroup C reveals the prehistoric migration routes of African exodus and early settlement in East Asia." Journal of Human Genetics (2010) 55, 428–435; doi:10.1038/jhg.2010.40
関連項目
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