ユナニ医学
ティムール朝(15世紀初頭?)で書かれた『医学典範』(Kitāb al-Qānūn fī al-ṭibb)の写本
ユナニ医学(ユナニいがく)とは、現在もイスラーム文化圏で行われている伝統医学であり、古代ギリシャの医学を起源とする。中国医学、アーユルヴェーダとともに、世界三大伝統医学のひとつとされる[要出典]。ユーナニ医学、ユナニ―医学、ユナニティブ、ギリシャ・アラビア医学、グレコ・アラブ医学、アラビア医学などともよばれる。「Yunan」ということばは、ペルシャ語で「ギリシャ」(Ionia)という意味で、「Yunani」とは「ギリシャの」(Ionian)または「ギリシャを源にするもの」という意味である[1]。イスラム医学、イスラーム医学と呼ばれることもあるが、イスラーム世界で発展したとはいえ、ネストリウス派キリスト教徒やユダヤ教徒など、多くの異教徒の学者も功績を残している。また、民族的にも非アラブ人であるペルシャ人(イラン人)やトルコ人、インド人、ギリシャ人、エジプト人、シリア人の医師たちも活躍したため[1]、厳密には「アラビア人の医学」でも「イスラームの医学」でもなく、広くアラビア世界、イスラーム文化圏で発展した医学を指す。10世紀に確立し、イスラームの拡大とアラビア語の普及に伴い、ヨーロッパやインドでも広く行われた[1]。ヨーロッパの大学では、15~16世紀には主にユナニ医学が教えられており、18世紀までイブン・スィーナー(Avicenna, 980-1307)の『医学典範』など、ユナニ医学の文献が教科書として使われていた[1]。
ギリシャ医学を受け継ぎ、自然治癒と病気の予防を重視している。生活習慣や環境を病気の原因と考え、生活指導や食材の性質を考慮した食餌療法を行う。理論としては体液病理説がベースにあり、ガレノス医学を受け継ぎ四体液説を採っている。これは、4種類の基本体液のバランスがとれていれば健康で、どれかが優位になれば病気になるとする考え方である。体液の調和を回復させるために、患者の気質と薬剤の性質を考慮し処方され、瀉血や下剤なども用いられる。アッバース朝では交易が盛んになったため(イスラーム黄金時代)、地中海や中近東地域に産するものだけでなく、世界各地の生薬が広く用いられた。西洋近代医学が台頭してからも、ヨーロッパでは19世紀まで治療に活用された。
理論
ユナニ医学の基本は、体液病理説であるが、それは「人間の身体には数種類の基本体液があり、その調和によって身体と精神の健康が保たれ、バランスが崩れると病気になる」というものであり、古代ギリシャやインドで唱えられた[2]。ユナニ医学はガレノス理論を受け継ぎ、基本体液を4種類とする「四体液説」を採っている。また、人に気質があるのと同様に、食材や生薬にも「熱・冷・湿・乾」の4つの基本性質があると考えられており、患者の気質と食材・生薬の性質を考慮して食餌指導や薬の処方がなされた。
ユナニ医学では、身体は次のものから作られているとみなされている[3]。
これらの内、気質(Mizaj, マザージュ)が重視され、病理、診断、治療の基礎になっている[3]。人によって優位な体液があり、体液の過少と人の気質には関係があると考えられている。
四大元素
詳細は「四大元素」を参照
元素とは一種の単純物質であり、火(Aatash)、空気(Hawa)、水(Aab)、土(Khaak)の4つである。空気は風(Baad)と言われることもある。四大元素は、ユナニ医学の用語としては、アルカーネ・アルバエー(Arkane-Arbae)という[1]。火と空気は軽く、水と土は重い。万物がこの4つの元素によってつくられており、万物の諸性質は、諸物質の相互反応の結果であるとされる。
4つの基本性質
アラビア・ヨーロッパの四大元素説は、アリストテレスの理論を受けついでいる。四大元素は、4つの基本性質「熱・冷・湿・乾」のうち2つを持ち、相互に変換可能であると考えられた[4]。火は熱・乾、空気は熱・湿、水は冷・湿、土は冷・乾の組み合わせであり[4]、配合によって強弱がある[5]。ペルシャ語やアラビア語でマザージュ(Mazaj)といい、「本質」「気質」「体質」「性質」などを意味する。人間にはそれぞれ気質があり、体の各器官や部分にも特定の性質がある。人間以外の動植物その各部分にも、特定の性質があるとされる。また、民族によって、それぞれ生活環境に適した気質を持っていると考えられた。熱性と冷性はエネルギーの集結(集合)や分離(分散)で、湿性と乾性は肉体の状態を表すものである[1]。
四体液
4つの基本体液は「血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁」で、それぞれの量、混合、成熟の度合いなどによって、人間の病気と健康が決まると考えられた。体液にはそれぞれ性質があり、血液は熱性・湿性、粘液は冷性・湿性、黄胆汁は熱性・乾性、黒胆汁は冷性・乾性である[3]。
また、どの体液が優位であるかによって、人の気質は「多血質、粘液質、黄胆汁質(胆汁質)、黒胆汁質(憂鬱質)」の4つに分けられた。
理論の扱い
ユナニ医学では、理論より医師自身による観察と実践が重視された。イブン・スィーナーは、元素や気質、体液といった理論は、自然学に属する研究テーマであり、医師はそれらを概念的に知るだけでよく、存在も論証なしで受け入れればよい。医師は患者の治療と健康の保持に集中すべきであり、理論を論証しようとすることは、医師として間違いを起こす元になると述べている[6]。
診断
尿を見るアル・ラーズィー
患者の身体の状態や言動、環境などが細かく観察され、触診が行われる。また体液病理説であるため、体液の状態を知るために、尿検査や便診、脈診、血の状態を見るための瀉血などが行われ、診断材料とされた[1]。
治療]
イブン・ブトラーン(11世紀)の養生書 (Taqwim al‑sihha) を基にヨーロッパで作られた写本『健康全書』より、「レタス」。ほとんどの項目は食事に関する事柄が書かれている。
治療の方針は、過剰な力を除去し、不足するところに加えて(逆療法)、過剰な体液を除き、体液のバランスを安定させることである。イブン・スィーナーは『医学典範』で、以下の3つの方法を挙げている[1]。
衛生と栄養:「衛生」は体の習慣に基づくもので、健康を保つために守るべき諸注意であり、薬の処方と適合しなければならない。「栄養」については、患者の気質や体液の状態、病気の度合いを念頭におき、食材の性質を考慮して、内容を指導する。食事を禁止したり、量を調整することも行う。
タクリイェ(下痢・嘔吐・瀉血などで悪い体液を排泄する治療)、ヘジャーマット(吸玉療法)、焼灼術[7](焼いた鉄製の器具を用いた治療で、中国の鍼灸の影響を受けている[8])も行われた。イブン・スィーナーは精神療法も行い[9]、音楽療法も積極的に取り入れ、電気ウナギを使った電気療法も行ったという[1]。また、『医学典範』の第4巻整骨篇は、本書を日本語に訳したサイード・パリッシュ・サーバッジューによると、アンブロワーズ・パレ(1510-1590)の外科書の整骨編に多く引用されており、パレを通して日本の整骨技法に影響をあたえたという[1]。
薬剤
アラビア語の本草書より、クミンとディル (ca.
1334) , 大英博物館蔵
アラビア医学を代表する医師イブン・スィーナーは、古代ローマの医師ディオスコリデスの本草書『薬物誌』を基に『医学典範』の薬物に関する巻を著し、約811種の生薬が収録された。ユナニ医学の薬物学は、ギリシャ・ローマの薬物学を受け継いで発展し、インド医学の薬物も多く取り入れている。アラビアの薬物書に載せられた薬物は、初めは数百種類であったが、最も充実していると言われるイブン・アルバイタール(1188-1248)の本草書には、2,324の生薬が記載されている[9]。ユナニ医学で使われる生薬の80%は植物性であり、動物性・鉱物性の生薬もある。生薬は単体で用いられる単純薬剤(Mufradat)と、ガレノス製剤と同様に、数種の生薬を混ぜた複合薬剤(Murakkabat)がある [3]。
イブン・ズフル(en:Avenzoar, 1091-1162頃)は、薬の調剤は医師ではなく薬剤師が行うべきだと考え、アラブ世界で一般的だった医薬分業を強調した[10]。12世紀のアラビア世界では、調剤業務に関する規則が定められ、薬局の監督官が置かれるなど、薬局制度の基礎が確立された。医学と薬学の法律上の地位を同等とする考えが広まり、薬学の研究が進んだ。
生薬製剤としては、錠剤、トローチ剤、麝香入り製剤、丸剤、ミロバラン練り薬、消化剤、健胃剤、バラやスミレの保存剤、点眼剤、カルシウムコーティング剤、練り薬の一種、口中で徐々に溶解させる練り薬、蜂蜜入り練り薬、軟膏剤、興奮剤、保存剤、解毒剤、水薬、座薬、歯磨きなどがある[3]。また、錬金術の発達で蒸留などの化学技術も進んだため、精油や芳香蒸留水が作られ治療に利用された。
薬の性質は、その薬が身体の気質に及ぼす作用によって決められ、患者に投与された時の反応から判断された。「緩和性、熱性、寒性、湿性、乾性、これらの増強型である強熱性、強寒性、混合型である熱乾性、寒乾性」の9種に分けられている[3]。
緩和性の薬剤を除いた「熱、寒、湿、乾、強熱、強寒、熱乾、寒乾」の性質のものは、体の状況や性質に影響を与える。緩和性を除いた8種類の性質は、強さによって4度に分けられる[3]。
このような生薬の性質の分類は、アラビア世界以外でも、中世ヨーロッパの養生書、近世ヨーロッパの本草書で見られ、現在の欧米のハーブ療法でも一部で利用されている[11]。
歴史
アラビア世界での発展
「アロマテラピー#歴史」および「:en:Alchemy and chemistry in medieval Islam」も参照
ガレノスの著作に擬せられる『テリアカの書』(Kitāb al-Diryāq)の写本(12世紀末)
ユナニ医学は、ヒポクラテスで知られる古代ギリシャの医学にまで遡る。古代ローマの医師ガレノスがまとめたギリシャ・ローマ医学などの古代ギリシャ・ローマの文化は、ヨーロッパではキリスト教徒の迫害により多くが失われた。6世紀には、ユスティニアヌス帝がアテナイの学園を閉鎖し[2]、学者たちの多くはアラビア世界に亡命し、この地にギリシャ医学をもたらした。ギリシャ医学はアラビアで、世界各地の医学を取り込んで発展した。またアラビア圏には、ユナニ医学と対を成すものとして、預言者ムハンマドの言行にならって病気に対処する預言者の医術(英語版)(ţibb al-nabīy, al-ţibb al-nabawī)が存在した。これは、医療と信仰が表裏一体となった民間療法で、「神が下された病いに、癒しなきもの無し」という信念の元に行われた[12]。
ガレノスの業績とそれをまとめたオリバシウス(en: c. 320–400)の著作や、テオフィロス・プロトスパタリオス(en: 7世紀)の中国医学の研究(脈拍の研究、尿検査法の基礎の確立)など、ビザンツ帝国の医学は、サーサーン朝ペルシャのジュンディーシャープール(現在のイラン・フーゼスターン州ゴンディーシャープール)の医学校に受け継がれた[8]。イスラーム拡大後、サーサーン朝の医学はアッバース朝に受け継がれ、さらに知恵の館で、ギリシャ・ローマやペルシャ、エジプト、中国など、さまざまな地域の莫大な医学書・薬学書が翻訳された。中でも『医学問答集』を著したフナイン・イブン・イスハーク(Johannitius, 809–873)は、良質の翻訳を大量に行ったことで名を残している[13]。ジュンディーシャープールではパーレビー語(古代ペルシャ語)に翻訳され、知恵の館では主に、イスラームの拡大で広範囲で使われるようになったアラビア語に訳された[1]。インド医学の古典『チャラカ・サンヒター』『スシュルタ・サンヒター』も翻訳されており[2]、ユナニ医学にはアーユル・ヴェーダの影響も見られる[13]。
知恵の館で活躍したフナイン・イブン・イスハークの『ガレノス医学入門』より、「目」の項目(1200年頃)
解剖学に関しては、イスラーム文化圏では、宗教的な制約で解剖が行われなかったので、ガレノスの誤りは修正されなかった。外科は宋の解剖学の影響もあったが、ガレノス医学を堅持しほとんど発展しなかった。手術はメスでなく焼灼に使う焼いた鉄の器具で切開を行ったため、術後感染症をおこし、死亡する患者が後を絶たなかった。これは、ユナニ医学を取り入れた中世ヨーロッパでも同様であった[8]。
翻訳時代以降、10世紀から11世紀にかけて、アラビアでは多くの医学書が書かれた。アリー・アッタバーリーやアル・ラージー(Rhazes, 864-930)などによって、その地方の医学とインドやギリシャ・ローマの医学が融合し、批判を加えつつ進化し、「ユナニ医学」として親しまれた[1]。さらにイブン・スィーナー(Avicenna, 980-1307)は、ガレノスの理論を継承し、時には批判を加えながらも発展させた。研究していたアリストテレスを参考に、ギリシア・アラビアの全知識を包含した、整合的な隙のない医学体系をまとめ上げ、医学書『医学典範』を著した[2]。『医学典範』はアラビア・ヨーロッパの医学に絶大な影響を与えた。アル・ラージーの『アル・マンスールの書』(医学の簡潔な手引書)や、エジプト出身のユダヤ人イスハーク・アル・イスライーリー(9~10世紀)の『尿の書』(尿診断の基本的なテキスト)も、中世ヨーロッパでよく読まれた[2]。アル・ラージーの医学書は臨床中心、イブン・スィーナーは理論中心であったが、どちらも理論と実践の融合を目指しているといえる。アッ・ザフラーウィー (en: Albucasis, 936-1019)が外科を、イブン・ズフル(en:
Avenzoar, 1091-1162頃)が食事療法の基礎を築いた[13]。
医学と共に錬金術も伝わったアラビア世界では、錬金術の研究によって化学が発展し、薬物の研究が進んだ。また、海上交易が盛んになったため、各地の生薬、香辛料が取り入れられた。イブン・アルバイタール(1188-1248)の本草書などがよく知られる[3]。
ユナニ医学を含むアラビア文化は、モンゴル帝国の破壊によって衰退の道を辿った。ユナニ医学は、南アジアを中心とするイスラーム文化圏に現在まで受け継がれ、パキスタンやインド、エジプト、新疆ウイグル自治区などで広く行われている[3]。特にパキスタンで盛んであるが、この国のユナニの治療者は、専門学校で学んだ者と、代々の伝統的治療者のもとで修業を積んだ者が存在する[6]。
ヨーロッパへの影響
「中世料理#中世の食餌療法」も参照
中世ヨーロッパの瀉血
ヨーロッパでは6世紀以降、長く医学が停滞し、中世の医学は主に修道院が担っていた。十字軍でヨーロッパがアラビアと接触すると、アラビアの最新医学は徐々にヨーロッパに取り入れられ、サレルノ医科大学の教師コンスタンティヌス・アフリカヌス(1017–1087)らが、イブン・スィーナーやアル・ラージーの医学書を翻訳した。12世紀には、イタリアなどで大学が設立され、医学部ではアラビアの医学書を教科書として専門教育が行われた[2]。15~16世紀まで、医学部では主にユナニ医学が教えられており、18世紀までイブン・スィーナーの『医学典範』が教科書として使われていた[1]。
ルネサンス以降、16世紀には、アンドレアス・ヴェサリウスがガレノス解剖学の誤りを証明するなど、さまざまな新発見があった。また、19世紀には実験医学が登場し、西洋医学は伝統医学的思考から自然科学へと方向を転じた[14]。しかし、ユナニ医学の基本である体液病理説(四体液説)は、1858年のウィルヒョー(ウィルヒョウ、フィルヒョウ)の細胞病理説まで、ほとんど議論の余地なく受け継がれていた[10]。
また、人体構造の解明や医学理論を重視した西洋近代医学では、治療の分野の発展が最も遅れたため、正規の医療とユナニ医学をベースにした伝統医療や民間療法の治療には、19世紀後半までさほど差がなかった。また、大学を出た医師による正規の医療は高額であり、権威を笠にきた高圧的な医師が多かった。そのためヨーロッパでは、医師免許を持たない民間の治療者が根強い支持を集めた[15]。ヨーロッパの民間療法・自然療法は、ユナニ医学を受け継いだものも多く、例えば、19世紀に食餌療法を体系化し、温水による湿布を用いたドイツの自然療法家ヨーハン・シュロートは、体液病理説に依拠する身体観・疾病観を堅持していた[15]。
脚注
1. ^ a b c d e f g h i j k l m サイード・パリッシュ・サーバッジュー 『ユーナニ医学入門 イブン・シーナーの「医学規範」への誘い』 ベースボールマガジン社、1997年。ISBN 978-4583034911。
2. ^ a b c d e f 梶田昭 『医学の歴史』 講談社、2003年。ISBN 978-4061596146。
3. ^ a b c d e f g h i 小松かつ子. “ユナニー医学とは”. Museum of Materia Medica, Univ. of Toyama. 2015年1月12日閲覧。
4. ^ a b 吉村正和 『図説 錬金術』 河出書房新社、2012年。ISBN 978-4309761817。
5. ^ 久木田直江「中世ヨーロッパの食養生」、『静岡大学英文学会会報』第28号2009年2月、2014年4月1日閲覧。
6. ^ a b 本多義昭 「ユナニおよびアラブ伝統医療」『医療従事者のための補完・代替医療』 今西二郎、金芳堂、2009年、改訂2版。ISBN 978-4765313759。
7. ^ “会報ヒューマンサイエンス(VOL.23) アラビアの様々な治療法”. Japan Health Sciences Foundation. 2015年1月22日閲覧。
8. ^ a b c 橋本治 『なぜ生まれた!どう進化した?早わかり科学史』 日本実業出版社、2004年。ISBN 978-4534038104。
9. ^ a b 前嶋信次 『アラビアの医術』 平凡社、1996年。ISBN 978-4582761481。
10. ^ a b ルチャーノ・ステルペローネ 『医学の歴史』 小川熙訳、原書房、2009年。ISBN 978-4562045143。
11. ^ デイビット・ウィンストン、スティーブン・メイム 『アダプトゲン ―ストレス「適応力」を高めるハーブと生薬―』 熊谷千津、法眼信子訳、フレグランスジャーナル社、2011年。ISBN 978-4894791923。
12. ^ 岡﨑桂二「『マカーマート』における医療のトポス-蘇生術、産婆術、預言者の医術-」、『四天王寺大学紀要』第47号2009年。
13. ^ a b c 佐藤次高、嶋田襄平、板垣雄三、日本イスラム協会 『新イスラム事典』 平凡社、2002年。ISBN 978-4582126334。
14. ^ 酒井シヅ 『医学史への誘い』 診療新社、2000年。ISBN 978-4915917639。
15. ^ a b 服部伸 『近代医学の光と影』 山川出版社〈世界史リブレット82〉、2004年。ISBN 978-4634348202。