· 中医師 |
漢方医学 |
中医師(ちゅういし, traditional Chinese physician)とは、中国の伝統医学である中医学を実践する医師のことで、香港を含む中華人民共和国や台湾、アメリカ合衆国などにおける国家資格である。
1982年の「三台の馬車政策」により、中国の医師教育には3種類の方法が行われるようになり、(1) 西洋医学の医師、(2) 西洋医学と中医学を併用する医師、(3) 中医学専門の医師と分別されるようになった。中医師の中にも専門職があり、中薬漢方での治療を主に行う中医師、針灸治療を主に行う針灸医師、推拿医師、気功専門コースなどがあり、日本のはり師・きゅう師・あん摩師の資格とも近からず遠からずである。
教育内容としては、中医学専門の場合でも、西洋医学:中医学=6:4であり、日本の鍼灸学校と似た比率であるが、解剖や技術指導、臨床実習などの点から言えば、中国は遥かに内容が充実している。ただし、日本から留学することで資格を得ても、日本で中国の資格は使えないため、留学生は非常に困難な状況である。もちろん、日本国の医師免許やあん摩師等各資格を保有する者が中医学留学を行う場合はこの限りではない。
1歴代の中医師に対する要求 |
1.1政府 |
1.2民間 |
2中医師資格取得方法 |
2.1中国本土 |
2.2香港 |
.3澳門 |
2.4台湾 |
2.4.1第一類 |
2.4.2第二類 |
2.5アメリカ合衆国 |
.6ドイツ |
中国の歴代の王朝は古来より中医師の職務、制度を設置した。体制、官品は各々の王朝によって異なるが、どの時代の中医師も基本的に病気治療、医事業務を取り扱った。
周の時代「医之政令」により医師上士、下士に分けられた。秦時代には太医令がおかれた。前漢、後漢、曹魏時代には太常、少府にはみな太医令が置かれた。太常の者は様々な官職の者に対して医療を行い、少府に属するものは宮廷において病気の治療に当たった。隋唐時代には太医署が設置され、宋時代には医官院が置かれ、金時代には改名され太医院となった。その後元、明、清朝とそのまま継続されて利用される。
師弟伝授方式で知識、技術が伝えられた。医術だけでなく医徳をもって医療に対することが大切ととかれた。
唐時代の名医孫思邈は「備急千金薬方」の《大医習業》と《大医精誠》の二篇の中で、詳細に治療方法と医徳について述べられている。
師資格取得方法
中医師資格、助理中医師資格に分けられる。中医薬大学もしくは中医学院を卒業後、中医師資格試験に合格する必要がある(例年合格率約80%)。
近年始まった。香港中医薬管理委員会主催。テストは筆記試験と臨床試験に分けられる。2005年筆記試験合格率36%、臨床試験合格率65.5%。現在の香港の中医師は“表列中医師”(「中医薬条例」実施前にすでに香港で仕事をしていたが中医師資格試験を受けていない中医師)と“登記中医師”(中医資格試験に合格した中医師)に分けられる。
澳門の住人で中医薬大学または大学院を卒業し、衛生局に免許申請すればすぐに資格が取れる。試験は必要ない。申請人は卒業証書、学位証書、卒業成績表が必要。診療所を開業したい場合、免許発行後、営業する診療所の詳細資料を提出し、衛生局の検査通過後開業できる。
第一類
中華民国教育部許可の中医薬大学で学位証書を取得後、中医師専技試験に合格する必要がある(合格率80%)。
中華民国(台湾)国民満22歳であれば誰でも受験できる試験(中医薬大学を卒業する必要はない)。合格率1,2%で世界で一番難しい中医師試験となっている。あまりの難しさのため2011年(民国100年)をもって第2類中医師資格取得体系は終了した。
日本統治時代前は中医師とは呼ばず漢医師と呼ばれる。
州によって条件が異なる。
· アーユルヴェーダ - 北インドの伝統医学。脈診や薬物などを中国医学から取り入れている
· チベット医学 - アーユルヴェーダに強く影響を受けているが、中国医学を取り入れている部分もある
· 獣医学
· 中国学
· 中国の科学技術史
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灸(『万象妙法集』嘉永3年序・刊) |
左より:灸(1番臼)、灸(2番臼)、温灸、和灸(並級)、順和灸(上級) |
灸のセット |
間接的な熱処理に使用される灸。接着性のある灸が現代産品として中国、日本と韓国で売られている。ベース部分が治療ポイントに自己粘着するのは普通である。 |
灸頭鍼
灸(きゅう、やいと)とは、艾(もぐさ=ヨモギの葉の産毛を陰干し・精製取得したもの)を皮膚上で部位を選択して燃焼させることによって病態に治療的介入をおこなう伝統的な代替医療、民間療法である。中国医学、モンゴル医学、チベット医学などで行われる。もぐさを皮膚に乗せて火を点ける方法が標準とされるが、種々の灸法が存在する(#灸法の種類を参考)。現在では燃焼させる代わりにレーザー光線を利用する例もあるが、一般的とは言えない。
生理的には、経穴(つぼ)と呼ばれる特定の部位に対し温熱刺激を与えることによって生理状態を変化させ、疾病を治癒すると考えられている。同じツボを使用する鍼が急性の疼痛病変に施術されてきたのに対し灸は慢性的な疾患に対して選択されてきた。
セルフケアとして自己施灸もなされ、かつては艾を撚り皮膚上に直に据えるのが主流であったが、今は既に成形された各種の灸製品(例として「せんねん灸」や棒灸など)を用いることが多くなりつつある。これら既製品は、艾の部位と皮膚との間に間隙が作成されており、輻射熱による刺激を行なうため、火傷のあとが付きにくい。現在では美容上の観点から多用されるが、効力としては、古来の直接灸に及ばないとされる。
日本では医師以外の者が灸を業として行う場合は灸師免許が必要である。治療としては、毎日または数日おきに反復して皮膚に微細な火傷を更新していく形となる。きゆう師が施灸ポイントを指示(点灸という)し、患者自身が自分で施灸を行う形が歴史的にも一般的な方法である。
灸の起源は約三千年前の古代中国の北方地方において発明された。多くの地方に皮膚を焼くことを治療行為とする伝記は残っている。
日本において鍼、灸、湯液などの伝統中国医学概念は遣隋使や遣唐使などによってもたらされた。灸は律令制度や仏教と共に日本に伝来したが、江戸時代に「弘法大師が持ち帰った灸法」として新たな流行となり、現在も各地に弘法の灸と呼ばれて伝わっている。また他にも「家伝の灸」として無量寺の灸、四ツ木の灸などがある。これらの灸法は打膿灸と呼ばれ、特に熱刺激が強く、皮膚の損傷も激しいため、あまり一般化していない。打膿灸は日本において腰痛や神経痛など様々な症状に用いられるが、実際のところは腫れ物(癰)などに用いたのではないかとも考えられる。
鍼とは異なって、奥の細道にも『三里に灸すゆるより』とあるように、旅路での足の疲れを癒したり、徒然草にあるように「40歳以上の者は三里に灸をすると、のぼせ(高血圧)を引き下げる」というように、灸をすることは庶民へ民間療法的側面を強くしながら伝わっていった。
もちろん公家や医官の間でも灸法は発達し『名家灸選』や『灸法指南』などといった書物が編纂された。戦後に活躍し昭和の名灸師と言われた深谷伊三郎は『黄帝明堂灸経』や『名家灸選』などを読んで深谷灸法を作り上げた。彼の灸法は、中医学で行われている灸法や奇穴も取り入れており、そのツボに灸することで出る効能が現在も多くの鍼灸師に多大な影響を与えている。
を据える
子供などを強く叱る意味の言葉として『灸を据える』『やいとを据える』という言葉があったが、家庭での灸が行われなくなったため、あまり聞かれなくなった。言葉の通り指頭大の灸を四肢や背部、臀部などに据えて我慢をさせるしつけであるが、これにより「灸はやけどが残るほど熱いもの」というイメージが定着することとなった。また灸の医療としての価値が損なわれる言葉でもあった。
実際に鍼灸院などで使われている灸は米粒大・半米粒大の灸や熱くなると取る知熱灸が主流なので、人により知熱感や肌の弱さによって異なってくるが、チクリとする程度の熱さ程度ないし目に見えるか見えない程度のやけどであることが多い。 但し、上記にある弘法灸や家伝の灸のように故意に火傷や膿を形成すると、免疫力が高まると言われているが、実際に免疫力が上がるかどうかは、綿密な研究が為されていないため、安易に行うには疑問が残る。
上述のように、過去に灸が「お仕置き」や「制裁」の手段として行われてきたことから、「お灸」という言葉はかなり昔から、そのような意味の隠喩(メタファー)としても用いられてきた。1990年頃までは新聞記事などにも、「汚職公務員に厳しいおキュウ」などと書かれたことがある。しかし、灸は東アジアの伝統的な優れた医療であり、こうした意味に使われるのは好ましくないと、日本鍼灸師会が主張し、現在は使われなくなった。
自律神経などに作用して、内分泌に影響を与えることが確認されており、局所の火傷から出る加熱蛋白体(ヒストトキシン)は、血中に吸収され、各種幼弱白血球が増加して免疫機能が亢進することが認められている。
ここでは灸法の一例を紹介する。灸は、皮膚の上に直接据えて灸痕を残す有痕灸と、直接は据えるが灸痕を残すことを目的としないまたは直接は据えない無痕灸とに大きく二分される。
透熱灸
本来の「灸法」はこれを指し、皮膚の上に直接モグサをひねったものである艾炷(がいしゅ)を立てて線香で火をつけて焼ききる。艾炷の大きさは灸法によってさまざまであるが米粒大(べいりゅうだい)や半米粒代(はんべいりゅうだい)が基本である。
焼灼灸
魚の目や胼胝(タコ)など角質化した部位に据える。硬くひねった艾炷によって角質化した部位を焼き落とす。角質化した部位にうまく当たれば熱さはあまり感じない。
打膿灸
大豆大から指頭大の灸を焼ききり、その部位に膏薬を塗って故意に化膿させる。本来は、膿瘍や癰腫に用いられたと考えられるが、日本では化膿することにより白血球数を増加させて免疫力を高める灸法といわれる。大きな灸痕を残すため一部の灸療所でのみ行われ、家伝灸として伝えられている。
直灸(点灸)
その名の通り、皮膚の上に点を付けてその上に艾炷を立てる。やり方は透熱灸と同じであるが、治療院や鍼灸師によっては知熱灸と同じやり方をしているところもある。
無痕灸
知熱灸
米粒大や半米粒大を8分で消す八分灸や大き目の艾炷(シュ)をつくり熱を感じると取る方法がある。
隔物灸
艾の下に物を置いて伝導熱を伝える灸。下に置くものとしてはしょうがやにんにく、ビワの葉、ニラ味噌、塩などがある。下に置く物の薬効成分と温熱刺激を目的とした灸法。
台座灸(温筒灸、円筒灸)
既製の台座または筒状の空間を作り台座とする隔物灸の一種。せんねん灸やカマヤ灸、長生灸(レギュラー、ライト)、つぼ灸などの商品名で市販されてものもこれに含まれる。現在、最も一般な灸である。
棒灸
棒状の灸をそのまま近づけるまたは専用の器具を使って近づける。輻射熱で温める灸。中国で主流の灸法。
皮膚に鍼を刺鍼してその鍼柄に丸めた灸をつけて火をつける。鍼の刺激と灸の輻射熱を同時に与えることが出来る。元来は鍼頭灸と呼ばれ、これを行ったのは中国から帰った笹川智興が日本で最初である。当時は極端に斜刺した鍼の鍼柄に艾をからませて、灸をメインとした治療法であった。現在知られる「灸頭鍼」は赤羽幸兵衛からであり、鍼と灸の両方の効果を期待したのはここからである。また、中国では「温鍼」と呼ばれ、日本のように丸々と艾を固めるのではなく、鍼に艾を長細く巻き付けるような感じで行う。
薬物灸
艾は使用せず、体の上に薬品を塗って皮膚に熱を伝える灸。紅灸、漆灸、水灸、油灸、硫黄灸などがある。
箱灸
綿灸(綿花灸)
湿らせた綿花の上に艾を乗せて線香で火をつける。
ガーゼ灸
湿らせたガーゼの上に艾炷を乗せてライターで直接焼く。
深谷灸法
深谷伊三郎の秘伝の灸として有名な灸法である。灸の8文目あたりが燃えたくらいで竹筒で施灸部を覆うという特殊な透熱灸を行う。
四畔の灸
瘡瘍(おでき)の灸法として使う。瘡の四畔(まわり)に鍼を刺し(水平刺で瘡の中心に向って刺す)又は糸状灸を間隔をおいて周らす方法である。
点状の灸
点状に糸状の細かい艾炷(シュ)を経穴に拘らず患部に並べて施灸する施術法である。筋違いや、胸鎖乳突筋の緊張などに応用する。
刺激量(ドーゼ)
艾炷の大小:艾炷の大きいものは刺激が強く、小さいものは刺激が弱い
属性 |
感受性 |
|
高い |
低い |
|
被灸者の年齢 |
小児、老年 |
青年、壮年 |
被灸者の性別 |
女子 |
男子 |
被灸者の体質 |
虚弱な者、神経質な者 |
頑健な者、多血質な者、脂肪質な者 |
被灸者の栄養状態 |
不良な者 |
佳良な者 |
被灸者の労働 |
精神労働者 |
肉体労働者 |
被灸者の被灸経験 |
未経験者 |
経験者 |
刺激部位 |
顔、手足など |
腰、背など |
顔面部、化膿を起こしやすい部位、浅層に大血管がある部位、皮膚病の患部・妊産婦の下腹部などへの直接灸
灸では気が少なかったり、余ったりすると気を補ったり、瀉したりすることで体を整える
項目 |
補する方法 |
瀉する方法 |
艾の質 |
良質の艾を用いる |
良質でない艾を用いる |
艾の大きさ |
小さい艾を用いる |
大きい艾を用いる |
艾の硬さ |
艾を柔かく捻る |
艾を硬く捻る |
艾の形状 |
艾炷を高くし、底面を狭くする |
艾炷を低くし、底面を広くする |
艾と皮膚との距離 |
皮膚に軽く付着させる |
皮膚に密着させる |
艾の燃やし方 |
風を送らず、自然に火が消えるのを待つ |
風を送って、吹いて火を速く消す |
艾の燃焼温度 |
低くする(心地よい熱感) |
高くする(強い熱感) |
艾の足し方 |
灰の上に新しい艾を重ねて施灸する |
灰を除去しながら施灸する |
壮数(回数) |
少なくする |
多くする |
六十九難による取穴は、その臓腑の気が不足した場合はその母を補い、気が充満した場合はその子を瀉せとしている。
補法 |
瀉法 |
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虚経 |
取穴 |
実経 |
取穴 |
木経 |
木経の水穴、水経の水穴 |
木経 |
木経の火穴、火経の火穴 |
火経 |
火経の木穴、木経の木穴 |
火経 |
火経の土穴、土経の土穴 |
土経 |
土経の火穴、火経の火穴 |
土経 |
土経の金穴、金経の金穴 |
金経 |
金経の土穴、土経の土穴 |
金経 |
金経の水穴、水経の水穴 |
水経 |
水経の金穴、金経の金穴 |
水経 |
水経の木穴、木経の木穴 |
臓腑 |
虚証の補法 |
実証の瀉法 |
東洋獣医学では牛、豚、ヤギなどの家畜に対してもお灸を施す。基本的な方法は人間と同様だが、ツボの位置や数は相応に異なる。近年日本でも自然治癒力の向上、繁殖障害や食欲不振の解消を目的として、牛や豚にお灸を施す講習会などの取り組みが行われている[1]。
1. ^ 保坂虎重、白水完児、他著『家畜のお灸と民間療法:クスリに頼らず経営改善』、農山漁村文化協会、1997年、pp.30-31,34.
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按摩(あんま)とは、なでる、押す、揉む、叩くなどの手技を用い、生体の持つ恒常性維持機能を反応させて健康を増進させる手技療法である。
また、江戸時代から、按摩の施術を職業とする人のことを「按摩」または「あんまさん」と呼ぶ。
按摩は中国発祥の手技療法である。按摩の按とは「押さえる」という意味であり、摩とは「なでる」という意味である。
按摩は西洋発祥のマッサージなどとともに手技療法の一種にあたるが厳密には区別されている。按摩は衣服の上から遠心性(心臓に近い方から遠い方)に施術を行うのに対し、マッサージは求心性(指先から心臓に近い方)に原則として肌に対して直接施術を行う[1]。按摩とマッサージはそれぞれ発祥となった地や治療方法は異なるが、東洋医学と西洋医学の長所を互いに取り入れた統合的なケア(統合治療)が重要視されるようになっている。
先史時代に人々の生活において、自然環境の中で生きていく上で様々な理由によって負傷して瘀痛(疼痛)や腫痛に苦しむ事も少なくなかったと考えられる。そんなときに、人々は自分あるいは仲間の患部を手で撫でたり擦ったりすることによって、外傷による瘀痛を散らして腫れをひかせて痛みを和らげる効果があることを発見した。当時においてはこれも有効な外科治療の一環であり、これが按摩術のルーツであると考えられる。
世界最古の医学書である黄帝内経には、いくつかの部位に按摩の文字が書かれているが、具体的な手法については記載がない。「導引按蹻は中央より出ず」とあり、この導引按蹻が按摩とする人がいるが誤りである。他にも「導引とは筋骨を揺がし支節を動かすを謂う。按は皮肉を抑え按ずるを謂う。蹻とは手足を捷挙するを謂う」ともあるように、これは現在でいう気功のことであり、按摩そのものを指す記述ではないと思われる。また、骨折・脱臼の治療などの今日の外科・整形外科の分野に属する治療や包帯法などに関する分野も扱っていたと考えられている。
中国においては隋の時代には按摩は独立した専門科として扱われるようになった。当時の医師達は按摩を「外邪の滞留を体内から除き、負傷によって体内に侵入する事を防ぐ」方法として内科・外科・小児科を問わずに行われた。朝廷内でも按摩博士、按摩師、按摩生が設置された。北宋以後においては、按摩の理論的な発展が見られ、『宋史』芸文志によれば按摩の専門書が書かれたとする記事がある(但し、現存せず)。明以後には医学における按摩行為を特に「推拿(すいな)」とも称されるようになった。
日本には養老令において、唐王朝をまねて典薬寮に、按摩博士、按摩師、按摩生をおいたとされる。この養老令は大宝令と全く同様のものとされるため、少なくともその時代には按摩が存在したと思われる(ただし、法制だけを継受しただけで、実際に古代日本に按摩そのものが伝来したか疑問視する見方もある[3])。しかし、その当時の按摩と現在のものが、どのような類似性があるのかは不明である。ただ、同時代の文献によると、当時の按摩には現在でいう包帯法も含まれていたと考えられる。
明治時代の按摩師 |
盲人の按摩風景 |
日本において按摩が本格的に興隆するのは江戸時代に入ってからである。宮脇仲策『導引口訣鈔』や寛政11年(1799年)藤林良伯『按摩手引』、文政10年(1827年)太田晋斎『按腹図解』などにより、按摩は体系付けられた。特に『按腹図解』の中の『家伝導引三術』では「家法導引の術に三術あり」として「解釈、利関、調摩」というそれぞれ「揉捏法、運動法、軽擦法」の基礎になっている術が記載されている。按摩は視力を必要としないために盲人の職業として普及した。
按摩の流派には、江戸期の関東において将軍徳川綱吉の病を治したと伝えられている杉山和一を祖とする杉山流按摩術[4]と吉田久庵を祖とする吉田流按摩術[5]が知られるようになる。杉山流は祖である杉山和一が盲目の鍼医であったこともあり盲目の流派として、これに対して吉田流は晴眼の流派として知られた[6]。一方、関西ではこのような流派はない。
『守貞謾稿』によれば、流しの按摩が小笛を吹きながら町中を歩きまわって町中を歩いた。京都・大坂では夜だけ、江戸では昼間でも流す。小児の按摩は上下揉んで24文、普通は上下で48文、店を持って客を待つ足力(そくりき)と呼ばれる者は、固定客を持つ評判の者が多いために上下で100文が相場であったと言う(ただし、足力は江戸のみで京都・大坂には存在しない)[7]。
GHQは「按摩・鍼灸は非科学的であり、不潔だ」として按摩・鍼灸を禁止しようとした。これに対し、業界や視覚障害者などは約60日に渡る猛抗議を行った。その和解案としてあん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律が作られた。
現代の各種法令では、流派を名乗る事は許されていないので、コマーシャル的に意味が無い状態である。
按摩の基本手技は以下の7つに分類される。また、以下に基本手技の代表的手技を記載する。
術手を患部に密着させ、同一圧で同一速度で同一方向に遠心性で「なで」「さする」手技。作用としては弱い軽擦法は知覚神経の刺激による反射作用を起こし、爽快な感覚を起こさせる。強い軽擦法の場合は循環系の流通を良くし新陳代謝を盛んにし、また鎮静効果を期待する。 軽擦という用語は新しく、明治初期の文献ではまだ確定されておらず、按撫、摩擦などという用語が使われている。元々はマッサージ手技のひとつである強擦に対比するマッサージ用語で、按摩のことばではない。従って、強擦という手技を持たない按摩で使うべきかどうかは疑問である。
手掌軽擦法
手掌全体で軽擦する手技で、大部分はこの軽擦法を使用する。
術手を患部へ密着させ、垂直に圧をかけ、その圧を抜かずに筋組織を動かす手技。作用としては主として筋肉に作用を及ぼし、組織の新陳代謝を盛んにする。また腹部におこなう時は、胃腸の蠕動機能を高め、便通をよくする。
把握揉捏法
四指と母指により筋肉を強く握って筋肉の走行に従って絞り揉む手技。
母指揉捏法
按摩の代表とされる手技で、施術部に母指腹を以って加圧し、その加圧した状態で筋線維に対して垂直方向に揉捏する方法。このとき、母指のみに力を加え、四指には力を入れてはならない。その他、輪状に行う方法もある。
手根揉捏法
手根部または母指球をあてて輪状に揉む手技。肩甲骨棘下部など硬い部位に用いる。
櫓漕(ろとう)揉捏
両手掌を重ねて、あたかも「舟の櫓」を漕ぐような動きで、主に腹部に施術する。
身体の表面を術者の手指ですばやく打ち、叩く方法である。力が深部に達するような叩き方は避け、関節を滑らかに動かして弾力をつけて左右の手で交互に叩くことが重要である。作用としては断続刺激がリズミカルに作用するので筋、神経の興奮性を高め、血行をよくし、機能を亢進させる。
手拳打法
軽く握った拳で叩く手技。
切打法
開いた手の小指側の縁で叩く手技。多くの場合、両手を交互に動かしてほぼ同一の部位に行う。
指頭叩打法
四指の指頭で叩く手技。頭部などに用いる。
合掌打法
両手掌を合わせ、その小指側の縁で叩く手技。肩上部などで用いる。
含気打法
左右の手掌を交差してあわせ、中に空気を蓄えるようにして一方の手背で叩く手技。古名は袋手の術。肩上部などで用いる。
圧がある頂点に達したらそれを減圧する方法である。圧を漸増、漸減に施す。漸増、漸減であるから急激に力を加えてはならない。作用としては機能の抑制である。神経痛などの痛みを鎮め、痙攣を押さえるなどの効果がある。
母指圧迫法
母指揉捏法と共に按摩の代表手技。母指にて徐々に圧を加え抜く手技。あらゆるところで使用する。
施術部へ術手を密着させ術手を固定し、肘関節を少し屈曲し、前腕伸筋屈筋、上腕伸筋屈筋を同時に収縮させアイソメトリックを起こし振動させ、その振動を患部へ伝える。作用としては細かい断続的刺激により神経、筋の興奮性を高め、また快い感覚を覚えさせる。本来は按摩の手技ではなく、マッサージの手技と思われる。
牽引振せん法
患者の上肢や下肢を引っ張りながら振るわせる手技。
患者の関節を十分弛緩させて術者がこれを動かす方法である。各関節の運動方向及び生理的可動域に注意する。作用としては関節内の血行を良くし、関節滑液の分泌を促し、関節運動を円滑にして関節の拘縮などを予防する。
中国の推拿の手法に類似しているので、その影響もあると見られる。江戸時代の鍼医杉山和一検校が普及させたものとする人もいるが、文献的にも根拠はない。按摩師自体には手技の安易さから研究を怠り医療行為と言うより、疲労回復や、その気持ちよさを愉しむ慰安の目的で施術が行われていた。一方、按摩術を復興しようとする一部の努力も素人の真似出来ぬ曲手(曲芸の曲)に重きを置き、治病効果を薄れさす傾向を助長したため政策的にも盲人救済の社会的便法に用いられるようになっては、按摩は盲人の別名のような印象を世間に与えてしまい、もはや本来の療術としての意義を殆んど失った状態で現行、按摩に受けつがれている[8]。一部の術者の熟練度を愉しむパフォーマンスとしての意味が強いと謳われている理由である。文献的には按腹鍼術按摩手引に記載されているのみである。
車手(二指の曲)
四指を軽く丸めて体表の上を関節ごとに当て転がす手技。
挫手
指頭を当てて第一関節を屈曲、過伸展を反復するように動かす手技。四指挫き、母指挫きがある。
横手(鳴骨の術)
開いた手の小指側の縁を体表に当てて手根を素早く前後に動かし筋肉の走行に滑らすように動かす手技である。この時、関節がコツコツと鳴るようにするために鳴骨の術とも呼ばれる。
名称はマッサージであるが、その手技は「あん摩」に近い。一般人がサービス内容を理解しやすい名称としてよく使われている。例としては中国式足つぼや台湾式足つぼや英国式リフレクソロジー等がある。しかしながら、あん摩マッサージ指圧師国家資格者で足ツボマッサージを生業とする者はほとんどいない。経穴(いわゆるツボ)も足の裏には湧泉しか正確には存在しない。
按摩 |
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推拿 |
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tuī ná |
|||
英文表記 |
Push and grasp[9] |
||
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中国大陸では明代以後、医療行為としての按摩は推拿(すいな)と言うようになった。これは日本では中国整体と呼称しているものであり、現在の中国政府も公式な中医学の医療用語として「推拿」を採用している。現在、日本国内の按摩と中国大陸の推拿は、技法は似ているが、用法が全く違うので注意が必要だ。
日本において中国整体という民間療法が行う技法の多くは、推拿の一部の専門手法を用いた推拿式整体療法といえる。しばしば中国整体は日本で言う按摩と誤解されるが、それは按摩が推拿の技法に一番近いことも関連する。現在では、数は少ないが推拿専門の教育機関も存在している。
「推」には手を一方向へ押し進めるという意味があり、「拿」にはその押し進めた手で掴みあげるという意味がある。中国医学では、その理論に基づいて経絡や筋肉・関節などに様々な手技(後述の按摩の基本手技と同一のものも多い)を用いて疾病の予防・治療を行っており、鍼灸と並んで「推拿科」として治療をしている病院も多い。また、中国には法的にも推拿師・推拿医師という資格がある。
日本では1947年(昭和22年)に「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」が成立して免許制度がスタートした[10]。1964年(昭和39年)には指圧が追加され「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」となった[10]。1970年(昭和45年)には柔道整復師法が独立した法律となったため「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」となった[10]。同法は1988年(昭和63年)に大幅改正され知事認可免許から大臣認可免許に変更された[10]。
日本では、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(昭和22年12月20日公布)において、あん摩マッサージ指圧師免許もしくは医師免許(共に国家資格)がなければ按摩を業として行う事が出来ない。しかし、按摩の手技定義が法的に明文化されておらず、また医業類似行為においては患者に害のある行為だと立証されない限り「職業選択の自由」の観点から法的に禁止出来ないとの最高裁判断もあり、国家資格でない各種民間療法は禁止の対象とならない。 なお、最高裁判決は医業類似行為に関する判断であり、あん摩、マッサージ、指圧については判断しておらず、無免許でそれらの行為を行えば健康に害を及ぼす虞の有無にかかわらず違法になる(昭和三五年三月三〇日 医発第二四七号の一各都道府県知事あて厚生省医務局長通知)。
上記の案件には国会でも度々、法改正の質疑応答がなされている。 尚法的には、従来通り按摩と表記して無資格者が按摩を行うのは違法であり、厚生労働省通達でも保健所への取り締まり強化を指示している。これは、国家資格保持者と民間資格保持者や無資格者を混同せぬよう、また施術行為を広告で明示する事で世間の混乱を抑える役目が期待されている。
「マッサージ#無資格者と名称問題」および「無資格マッサージ士問題」も参照
戦中までの文学作品には、杖・黒めがね・あんま笛の三点セットを身につけて街を流して歩く視覚障害者である盲人のあんまさんの姿がよく見られる。最近のものでは、文藝春秋のエンターテインメント系文芸誌オール讀物2007年1月号に掲載された佐藤愛子の「離れの人」という短編小説に、「口に入るもんならあんまの笛でもええ」という表現がある。
かつては、あんまという言葉が視覚障害者の盲人を指す際に使われることがあった。そのため、実際には自宅などで、「按摩」をしていても、看板や広告には、「マッサージ」と表記する人が多い。またあんまという言葉自体も放送禁止用語扱いされており、『三つで五百円』(西条ロック)のように「歌詞にあんまという言葉が含まれている」ことが理由となって民放連の要注意歌謡曲指定制度における「要注意歌謡曲」となり、事実上テレビ・ラジオでのオンエアが不可能になった曲も存在する[11]
番付下位力士が上位力士の稽古相手をすること。実力が違い過ぎて、下位力士との稽古は体をほぐす按摩のようなものという意味からこの相撲用語が成り立っている。
1. ^ a b c d 東洋医療研究会『なる本 はり師・きゅう師・あんまマッサージ指圧師』週刊住宅新聞社、2006年、20頁
2. ^ 東洋医療研究会『なる本 はり師・きゅう師・あんまマッサージ指圧師』週刊住宅新聞社、2006年、25頁
3. ^ 丸山裕美子「按摩」『日本史大事典 1』(平凡社)
4. ^ 遠藤元男「按摩」『日本史大事典 1』(平凡社)
5. ^ 西山松之助「按摩」『国史大辞典 1』(吉川弘文館)
6. ^ 加藤康昭「按摩」『日本歴史大事典 1』(小学館)
7. ^ 遠藤元男「按摩」『日本史大事典 1』(平凡社)・西山松之助「按摩」『国史大辞典 1』(吉川弘文館)・加藤康昭「按摩」『日本歴史大事典 1』(小学館)
8. ^ 増永静人 (1966年). “東洋医学に於ける指圧療法の立場”. 日本東洋醫學會誌. doi:10.14868/kampomed1950.17.66. 2018年7月7日閲覧。
9. ^ “Tui Na MTCP”. Academy of Chinese Culture and Health Sciences. 2012年7月24日閲覧。
10. ^ a b c d 東洋医療研究会『なる本 はり師・きゅう師・あんまマッサージ指圧師』週刊住宅新聞社、2006年、24頁
11. ^ 東京中日スポーツ・2009年8月27日付 16面。ただし「放送禁止歌」(森達也著、光文社文庫、2003年)pp.70 - 71に収録されている要注意歌謡曲リストには曲名がない。
漢方医学(かんぽういがく)または漢方は、狭義では漢方薬を投与する医学体系を指す[1]。また漢方は、漢方薬そのものを意味する場合もある。広義では、中国医学を基に日本で発展した伝統医学を指し、鍼、灸、指圧なども含む[1]。現在日本の東洋医学業界では、古典医学書に基づく薬物療法を漢方医学、経穴などを鍼や灸で刺激する物理療法を鍼灸医学、両者をまとめて東洋医学と呼んでいる[2]。
5・6世紀に中国から日本に中国医学が伝来したといわれる[3]。漢方医学は、明に留学した僧医などによって、金・元の医学が導入されてから徐々に独自性を持つようになり(後世派)[1]、16世紀室町時代以降に発展し[4]、活発な貿易が行われた安土桃山時代に一般に普及した。(これは、日本では生薬の多くは輸入する必要があり、海上ルートの確立が欠かせなかったためである[5])陰陽五行説の影響の大きい後世派に対し、江戸時代にはこれを批判して実証主義的な古方派が台頭し、のちに2派を統合した折衷派が生まれた[6]。現在の漢方医学にも3派の名残がみられ、特に古方派の影響が大きいといわれる[7]。
漢方医学では、伝統的診断法によって、使用する生薬の選別と調合を行う。このように処方された生薬方を漢方薬と称す。漢方薬の一部は1976年(昭和51年)から保険薬として収載されており、現在では漢方薬を使った治療が広く行われている[8]。しかし日本には、中国や韓国のような伝統医の国家資格は存在せず、1883年(明治16年)以降、医師国家試験の課目にも漢方医学は含まれなかった。そのため漢方医学の体系的な知識を持つ医師は少なく、漢方薬が西洋医学的発想で使われるなどの問題も散見される[9]。
明治政府により日本の医療に西洋近代医学が採用され、漢方医学は著しく衰退した。日本の医学教育では、漢方医学を始めとする伝統医学の教育は100年以上ほとんど行われなかったが、2001年に、医学部の教育内容ガイドラインの到達目標に「和漢薬を概説できる」が加えられたことで、全国の大学で漢方医学の講義が徐々に行われるようになってきている[10]。
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16世紀以降、西洋医学が日本に導入されて南蛮医学、紅毛医学と呼ばれたが、江戸中期には西洋医学をオランダ人がほぼ独占するようになり、蘭方または洋方と称された。これに対して、中国医学系の従来の医学を漢方と呼ぶようになった[9]。幕末から国学と漢学を尊皇的に皇漢学といい、明治14年ころから和漢学と称されたが、それに伴い漢方も皇漢医学、和漢医学と呼ばれた。日清戦争以降、西洋と対になる東洋という用語が定着したと考えられており、昭和25年に日本東洋医学会が設立されて、東洋医学という呼び方も一般的になった。現在日本の東洋医学業界では、漢方医学(古典医学書に基づく薬物療法)と鍼灸医学(経穴などを鍼や灸で刺激する物理療法)を合わせて東洋医学と呼んでいる。 中国医学との違い
漢方医学は、「気血水」「虚実」などの理論や、「葛根湯」などの方剤(複数の生薬の組み合わせ)を中国医学と共有し、テキストとして中国の古典医学書が用いられる。しかし両者には多くの違いがあり、特徴としては具体的・実用主義的な点が挙げられる。
現在の漢方の主流である古方派[11]では、中国医学の根本理論である陰陽五行論を観念的であると批判し排除したため、漢方には病因病理の理論がなく、証(症とも。症状に似た概念)に応じて『傷寒論』など古典に記載された処方を出すのが主流である[7]。証を立てるための診断法としては、脈診を重視し腹診がすたれた中医学とは対照的に、腹診を重んじ脈診はあまり活用されない[9]。また、使われる生薬の種類は中国より少なく、一日分の薬用量は中国に比べて約3分の1である[9][5]。(これに対して、韓医学(朝鮮半島)で使われる生薬量は中程度である。)
漢方医学の処方は、『傷寒雑病論』(現在では、『傷寒論』(しょうかんろん)及び『金匱要略』(きんきようりゃく)と呼ばれる2つのテキストとして残る)を基本とした古い時代のものに、日本独自のマイナーチェンジを加えたものである。「温病」(うんびょう)など、明から清にかけて中国で確立した理論はほとんど漢方医学には受け継がれていない[7]。
概説
気血水理論
気血水説は古医方を唱えた吉益東洞の考えを、長男の吉益南涯が敷衍した理論であると日本では言われているが、『黄帝内経』に同じような記述も見られる節もあり、表現が違うだけで東洞が考えたというのは甚だ疑わしいとする声もある[12]。
気血水理論では、
人間の体の中を巡っている仮想的な「生命エネルギー」のようなもの[13]。
血液以外の体液がそれに相当する[13]。
の3つの流れをバランスよく滞りない状態にするのが治療目標になる。
陰陽五行論も中国医学の理論化に用いられた。ただし、現在の漢方は、陰陽五行論を観念的として除した古方派[14]が主流であり、診断・処方にはあまり用いられない[7]。
実は体力の充実している状態、虚は体力の衰えている状態であるが、体のどこが虚しているかが重要である。
「気」の鬱滞が病気を起こすという発想は古くからみられ、後藤艮山によって大いに唱えられた。血も水も気によって動かされるので、気の鬱滞は血、水の鬱滞をもたらす。
俗に「ふる血」と呼ばれる状態で「血」と呼ばれるものが停滞した状態である。
痰は水、すなわち喀痰を含んだ体液全般を指す。狭義には胃内の停水をいう。
症状を含めたその患者の状態を証(しょう)と呼び、証によって治療法を選択する。証を得るためには、四診を行うだけではなく、患者を医師の五感でよく観察することがまず必要である。
西洋医学では、患者の徴候から疾患を特定することを「診断」と呼び、これに基づいて疾患に応じた治療を行う。しかし漢方医学では、治療法を決定すること自体が最終的な証となる。例えば葛根湯が最適な症例は葛根湯証であるという。
証の分類と治療法の選択について、さまざまな理論化がなされた。
治療法を決定するためには四診(望、聞、問、切)を行う。
医師の肉眼による観察。体格、顔色、舌の状態等。特に舌の観察をもとにした診断を舌診(ぜっしん)と呼び重要視される。
聞診(ぶんしん)
医師の聴覚、嗅覚による観察。患者の声、咳の音、排泄物の臭いなどから診断する。
漢方独自の概念はあるものの、基本的には西洋医学と同様に家族歴、既往歴、現病歴、愁訴を問う。西洋医学よりも詳しく、一見無関係な質問も行い、全身状態の把握に努める。
医師の手を直接患者に触れて診察する方法。脈の状態から診断する脈診(みゃくしん)と腹の状態から診断する腹診(ふくしん)が特に重要である。
排毒
漢方医学における体からの毒素を排出(いわば「瀉」)する際に重視したもの
などの施術があげられる。
詳細は「中国医学#歴史」を参照
古代~中世
日本には遣隋使・遣唐使によって、また朝鮮経由で中国から伝えられた。8世紀に日本に戒律を伝えた鑑真は医学にも精通したとされ、756年に崩御した聖武天皇の遺品を納めた奈良の正倉院[16]には多くの薬物が納められている。982年には現存する日本最古の医書『医心方』が丹波康頼によって編纂された。13世紀頃には禅宗の僧が医学の担い手となった。14世紀を代表する医師として『頓医抄』の梶原性全や『福田方』の有隣が知られている。
日本で現在の漢方医学といわれるものが発展するのは16世紀になってからであった。明に留学した田代三喜は当流医学を学んだ[17][18]。その弟子であり織田信長に重用された曲直瀬道三は『啓迪集』を著わし、また医学舎「啓廸院」を創り息子の曲直瀬玄朔をはじめとして多くの弟子を教えた。この医学はのちに後世派(ごせいは)と呼ばれる。この時代に医学と宗教の分離が行われた。
17世紀には名古屋玄医が『傷寒論』への回帰を訴えた。後藤艮山が玄医の考え方を発展させ、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞らがこれに続いた。この流れは古方派(こほうは)と呼ばれる。後世派が陰陽理論や五行理論といった抽象的な理論に基づくのに対し、古方派は実証的に『傷寒論』を解釈することに務めた。これは杉田玄白ら蘭学医にも影響を与え、華岡青洲による世界最初の麻酔手術にもつながっていく。しかし古方派の実証主義が結果的には西洋医学流入に伴い漢方医学が衰退する一因となる。
後世派と古方派はしばしば対立したが、後世派の祖である曲直瀬道三も『傷寒論』を軽視していたわけではなく、古方派の後藤艮山は「一気留滞論」を唱え、香川修庵は医学における陰陽五行説を否定するなど、『傷寒論』などの古典を無批判に肯定していた訳ではない。
東京都中央区日本橋浜町二丁目にある「日本漢方医学復興之地」碑(2019年2月13日撮影) |
明治政府の政策により1874年の「医制」発布以降は西洋医学を学び医師免許を取得しなければ医師と名乗ることができなくなった。現在でもこの規程は有効であり、純粋の漢方医は日本には存在しない(なお、漢方医の運動により1895年に医師法改正案が出されたものの、わずか28票差で否決されている)。ここに至り遂に漢方は壊滅の危機に瀕したが、多くの町の薬剤師、薬種商達のお陰で、伝承が途絶えるのは辛うじて免れ[19]、また、医師免許を取得した医師が漢方医学の研究・診療することまでは否認されていなかった。1910年に和田啓十郎が『医界之鉄椎』、その弟子の湯本求眞が『皇漢医学』(1928年)を著わし漢方医学の復権を訴え、西洋医学を学んだ医師が漢方も学び実践する形で生き長らえた。
また僧侶の森道伯が後世派の流れを汲む一貫堂医学を築き上げたが、森道伯自身は医師免許が無く、矢数格や矢数道明など多くの医師が弟子として一貫堂に入門してきたため、門人たちによって一つの流派を形成するにいたった。なお、矢数道明はのちに大塚敬節と出会い、日本漢方医学会を結成して、ともに昭和漢方の復興を牽引することとなった。
1950年には日本東洋医学学会が発足した。1976年には漢方方剤のエキス剤が健康保険適用になり、広く用いられるようになった。日本東洋医学会発足当初、会員の中心は薬剤師、薬種商の先生方であり[20]、現状においても漢方の担い手の主体は医師というよりは薬剤師や登録販売者、鍼灸師で、特に長年に渡り漢方医学を守り続けている漢方専門薬局、漢方専門薬店であるが、昨今では漢方医学に関心や理解を示す医師も多くなった。ただし、現代医学と体系を異にする漢方医学を十分に理解して実践している医師は一握りと言われている。
中国医学を源とする医学は、中国(中医学)、日本(漢方)以外にも、朝鮮半島(古くは東医、現在の韓国では韓医学、北朝鮮では高麗医学と呼ばれる[21][22])、ベトナム(南医学)などアジアの広い範囲で行われている[23]。東南アジアの伝統医学も、その多くがアーユルヴェーダと共に中国医学の影響を受けている。
また、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアなどでも中国医学系の伝統医学(Traditional Chinese medicine (TCM))は注目され、広く実施されている。オーストラリアは西洋文化圏で最も中医学が発展しており、2012年には全国で中医の登録制度が実施された[24]。アメリカでは50州の内44州で鍼灸が合法化され、カナダやイギリスでも中医診療所は増加傾向にある[25]。アメリカ国立衛生研究所(NIH)では、中医学中心に伝統医学の研究が行われ、アジアの生薬療法の研究に大きな予算が割かれている。アジアの伝統医学の研究は2003年の段階で、NIHの中のアメリカ国立補完代替医療センター(NCCAM)と国立がんセンター(NCI)を合わせて250億円ほどの規模で行われており、その成果はアメリカに独占されている[26][27]。
中国医学系の伝統医学は、代替医療・統合医療の分野で世界的に活用され、グローバル化が進んでおり、標準化が課題となっている。中心地である日中韓の伝統医学は、共有する部分も大きいが理論・用語・処方に様々な違いがあり、政治的な影響もあり足並みはそろっていない。これは、アジアのハーバルメディスン(漢方薬)の標準化を目指すアメリカに対し、アジアの伝統医学にとって大きな不安材料となっている[26]。日本は政府・医学会共に、中国医学の国際化・アメリカ主導の標準化の流れに関心が薄く、中国、韓国、香港、台湾などと異なり伝統医学を扱う政府のセクションは存在しない。国際的にも漢方への理解は低く、外交面で大きく立ち遅れているのが現状である[27]。
1. ^ a b c 今西二郎・栗山洋子「漢方」(今西二郎 編集 『医療従事者のための補完・代替医療 改訂2版』 金芳堂、2009年 収録)
2. ^ 真柳誠 「西洋医学と東洋医学 『しにか』8巻11号
4. ^ 日本医師会 1992, p. 2.
5. ^ a b 松本克彦編著『今日の医療用漢方製剤-理論と解説』メディカルユーコン、1997年
6. ^ 長濱善夫 『東洋医学概説』 1961年、創元社
7. ^ a b c d 小髙修司 『中国三千年の知恵 中国医学のひみつ なぜ効き、治るのか』〈講談社ブルーバックス〉講談社 1991年
9. ^ a b c d 大塚恭男 『東洋医学』 岩波書店(1996年)
10. ^ 今津嘉宏, 金成俊, 小田口浩 ほか、80大学医学部における漢方教育の現状 『日本東洋医学雑誌』 2012年 63巻 2号 p.121-130, doi:10.3937/kampomed.63.121
11. ^ 古方派 薬学用語解説 公益社団法人日本薬学会
12. ^ 大塚敬節 『漢方医学』 創元社(大阪) ISBN 4-422-41110-1
13. ^ a b c 日本医師会 1992, p. 7.
14. ^ 日本における中国伝統医学の流れ<明治以前> 大塚恭男 漢方の臨床 東亜医学協会
15. ^ 日本医師会 1992, pp. 7-8.
16. ^ 正倉院は東大寺の倉庫であったが、現在は宮内庁が管理している。
17. ^ 宮本義己「「当流医学」源流考―導道・三喜・三帰論の再検討―」、『史潮』59号、2006年。
18. ^ 宮本義己「曲直瀬道三の「当流医学」相伝」、二木謙一編『戦国織豊期の社会と儀礼』吉川弘文館、2006年。
19. ^ 小曾戸洋『漢方の歴史』
20. ^ “日本漢方交流会の黎明期を語る”. 日本漢方交流会相談役 西脇平. 2018年8月28日閲覧。
21. ^ 고려의학 북한용어사전 코리아콘텐츠랩 & 중앙일보 통일문화연구소
22. ^ 高麗医学科学院で経絡討論会 朝鮮新報
23. ^ 真柳誠「日韓越の医学と中国医書 『日本医史学雑誌』56巻2号
24. ^ オーストラリア中医見聞録 東洋学術出版社
25. ^ 世界で広まりつつある中医学の輪 東洋学術出版社
26. ^ a b 漢方薬の国際性を目指して 曹基湖 日本東洋醫學雜誌56 社団法人日本東洋医学会
27. ^
a
b
漢方国際化の問題点 渡辺賢治
日本東洋醫學雜誌56 社団法人日本東洋医学会
考文献