金匱要略
『金匱要略』(きんきようりゃく)は、中国の古典医学書。『傷寒論』とともに東洋医学の薬物療法の古典として最も重要視されている[1]。『傷寒論』は傷寒という急性熱性病の病状の変化とこれに対応する治療の法則を述べたのに対し、『金匱要略』は病類別に種々の病を取り上げ、その病理と治療方法とを述べた[2]。
成立の経緯
『金匱要略』は『金匱玉函要略方論』(きんきぎょくかんようりゃくほうろん)とも言い[3]、元来は後漢の張仲景が書いた『傷寒雑病論』の一部(『雑病』部)である(同書の詳細については「傷寒論」を参照)[要出典]。
『傷寒雑病論』は、長年の戦乱と同書を門外不出の秘伝扱いにした一部医師の所業により、散逸して久しかった。そこで当時現存していた『傷寒』部のみが『傷寒論』として流布され、その他の病気を扱った『雑病』部は行方不明になった。ただ、孫思邈の『千金要方』などの引用部分から大体の構成を推測可能であった[要出典]。
ところが、北宋の仁宗の時代に王洙が宮中で「金匱玉函要略方」という書籍を発見した。調査の結果、これが『傷寒雑病論』のダイジェスト版で、その後半部分が同書の「雑病」部であることが判明した。そこで、『傷寒論』の校訂を務めた林億に『雑病』部の校訂が命じられた。林億はこれを『傷寒論』と重複しない‘雑病・方剤・婦人病’の部分だけを取り出して校訂し、欠けている部分を他の医書の引用部などを参考に補足し、分かりやすいように項目の配列の入れ替えを行った。これが『金匱要略(方論)』である[要出典]。
構成
『金匱要略』は全25巻で、病気の処方ごとに編が組まれている(後に王億が方剤に関してもこの原則に併せて順序を改めている)。第一篇の「臓腑経絡先後病」では人体を一つの統一した有機体とする思想から邪気・正気・臓器間の関係などを通じて病気の発生とメカニズムとその治療法の原則(経絡・脈法を重視する事など)を説いている。以後、内科・外科・分類不可の病気・方剤・婦人病・救急法及び食物禁忌について書かれている。
ただし、一説には『傷寒論』を編纂した西晋の王叔和の時には、既に『傷寒論』から切り離されて独立した書籍になったといわれている。
合食禁合食禁(がっしょくきん)、または食合禁(しょくごうきん)は、食に関する伝承の一つ。一緒に食べるときに食材の取り合わせが悪いとされる言い伝えであり、一般に消化に害を来たすとされている。平易な日本語では食べ合わせ(たべあわせ)、食い合わせ(くいあわせ)と呼ばれることが多い。 目次概要日本で伝えられている合食禁は、元は中国から伝えられた本草学における薬物相互間作用の研究に加えて陰陽五行思想を食材にあてはめたものとされる。このため、科学的根拠の無いものもあるが、中には医学的に正しいとされるものも存在している。 中国では食経と呼ばれる書物でたびたび採り上げられ、例えば、元の忽思慧による『飲膳正要』という本には「食物相反」の章が立てられて「牛肉と栗子」などの例が挙げられている。日本では、養老律令の職制律に、天皇に出す食事に合食禁を犯した場合には内膳司の責任者(次官)である典膳は徒3年の刑に処されるとある。また、南北朝時代に洞院公賢が著したとされる『拾芥抄』や江戸時代初期に貝原益軒が著した『養生訓』には多くの食禁が記されている。ただし、これらの書籍には鰻(うなぎ)と梅干、天麩羅と西瓜、蕎麦と田螺などのような今日知られる代表的な例は記されていない。これは鰻の蒲焼、蕎麦切り、天麩羅が江戸時代になってから食されるようになった食物であることによる(『養生訓』には蕎麦に関する例は一部挙げられているが、ごくわずかである)。 近年では栄養面での合食禁も伝えられている。 合食禁の実例日本に古くから伝えられる合食禁天ぷらと西瓜
現代日本の合食禁現代の栄養学的・医学的知見に基づいて、避けるべきとされている食物の組み合わせ。
宗教的理由による合食禁食のタブーによる「宗教的理由」により、戒律で避けなければならない事例である。
薬剤との合食禁一般的には「食べ合わせ」という呼称よりも「飲み合わせ」という呼称が用いられる。特定の薬剤と食品中の成分が体内で相互作用を起こし、薬効または副作用が極端に強まったり、減衰したりする。 「グレープフルーツジュース#薬物相互作用」も参照 |