江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。
藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。
江戸時代の期間は主流の学説では、慶長8年2月12日(1603年3月24日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから慶応4年/明治元年4月11日(1868年5月3日)に江戸城が明治政府軍に明け渡されるまでの265年間を指す。
始期については、豊臣秀吉が薨じた1598年(慶長3年)や関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した1600年10月21日(慶長5年9月15日)や豊臣氏滅亡の1615年(元和元年)を始まりとする見方もある。
終期については、ペリー来航の1853年(嘉永6年)や桜田門外の変があった1860年(万延元年)や徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した1867年11月9日(慶応3年10月14日)とする見方や、王政復古の大号令によって明治政府樹立を宣言した1868年1月3日(慶応3年12月9日)や廃藩置県が断行された1871年(明治4年)とする見方も存在する。[1]
江戸幕府は徹底的な政局安定策を取り、武家諸法度の制定や禁中並公家諸法度など諸大名や朝廷に対し、徹底した法治体制を敷いた。しかし、朝廷から見れば徳川は所詮関東の代官に過ぎなかった。大名の多くが「所領没収」で姿を消し、全国の要所は直轄領(天領)として大名を置かず、多数の親藩大名に大領を持たせ、その合間に外様大名を配置し、譜代大名には小領と中央政治に関与する権利を与えるという絶妙の分割統治策を実施した。
「自家優先主義」との批判もあるが、これにより結果的には260年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「天下泰平」という日本語が生まれるほどの相対的平和状態を日本にもたらした。
また、農本主義的に思われている家康だが、実際には織田信長、豊臣秀吉と同時代の人間であり、また信長の徹底的な規制緩和による経済振興策をその目で見てきていることからも、成長重視の経済振興派であった可能性が指摘されている。平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な新田開発が各地で行われたため、戦国時代から安土桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。
また江戸時代には、対外的には長崎出島での中国(明・清)・オランダとの交流と対馬藩を介しての李氏朝鮮との交流以外は外国との交流を禁止する鎖国政策を採った(ただし、実際には薩摩に支配された琉球王国による対中国交易や渡島半島の松前氏による北方交易が存在した)。バテレン追放令は、既に豊臣秀吉が発令していたが、鎖国の直接的契機となったのは島原の乱で、キリスト教と一揆(中世の国人一揆と近世の百姓一揆の中間的な性格を持つもの)が結び付いたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたからであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、スペインなどのカトリック国に日本植民地化の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を海禁政策と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の倭寇をも含む海賊からの防衛及び海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の鎖国と事情が異なる面もあった。しかし、日本の鎖国も中国の海禁と同じとして鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、東南アジアに多くの日本町が形成された。またタイに渡った山田長政のように、その国で重用される例も見られた。
しかし鎖国後は、もっぱら国内重視の政策が採られ、基本的に国内自給経済が形成された。そのため三都を中軸とする全国経済と各地の城下町を中心とする藩経済との複合的な経済システムが形成され、各地の特産物が主に大坂に集中し(天下の台所と呼ばれた)、そこから全国に拡散した。農業生産力の発展を基盤として、経済的な繁栄が見られたのが元禄時代であり、この時代には文学や絵画の面でも、井原西鶴の浮世草子、松尾芭蕉の俳諧、近松門左衛門の浄瑠璃、菱川師宣の浮世絵などが誕生していく。この元禄期に花開いた文化は元禄文化と呼ばれる。
元禄時代の経済の急成長により、貨幣経済が農村にも浸透し、四木(桑・漆・檜・楮)・三草(紅花・藍・麻または木綿)など商品作物の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、瀬戸内海の沿岸では入浜式塩田が拓かれて塩の量産体制が整い各地に流通した。手工業では綿織物が発達し、伝統的な絹織物では高級品の西陣織が作られ、また、灘五郷や伊丹の酒造業、有田や瀬戸の窯業も発展した。やがて、18世紀には農村工業として問屋制家内工業が各地に勃興した。
人と物の流れが活発になる中で、城下町・港町・宿場町・門前町・鳥居前町・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」であったという評価[2] がある。18世紀の初め頃の京都と大坂(大阪)はともに40万近い人口を抱えていた。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、世界最大の都市でもあった。当時の江戸と大坂を結ぶ東海道が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている[3]。
このような経済の発展は、院内銀山などの鉱山開発が進んで金・銀・銅が大量に生産され、それと引き替えに日本国外の物資が大量に日本に入り込んだためでもあったが、18世紀に入ると減産、枯渇の傾向が見られるようになった。それに対応したのが、新井白石の海舶互市新例(長崎新令)であった。彼は、幕府開設から元禄までの間、長崎貿易の決済のために、金貨国内通貨量のうちの4分の1、銀貨は4分の3が失われたとし、長崎奉行大岡清相からの意見書を参考にして、この法令を出した。その骨子は輸入規制と商品の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えるものであった。清国船は年間30艘、交易額は銀6000貫にまで、オランダ船は年間2隻、貿易額は3000貫に制限され、従来は輸入品であった綿布、生糸、砂糖、鹿皮、絹織物などの国産化を奨励した。
8代将軍となった徳川吉宗は、紀州徳川家の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく大胆に、農本主義に立脚した政治改革を行った(享保の改革)。吉宗が最も心を砕いたのは米価の安定であった。貨幣経済の進展に伴い、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた旗本・御家人の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は倹約令で消費を抑える一方、新田開発による米の増産、定免法採用による収入の安定、上米令、堂島米会所の公認などを行った。「米将軍」と称された所以である。それ以外にも、財政支出を抑えながら有為な人材を登用する足高の制、漢訳洋書禁輸の緩和や甘藷栽培の奨励、目安箱の設置その他の改革を行った。幕府財政は一部で健全化し、1744年(延享元年)には江戸時代を通じて最高の税収となったが、年貢税率の固定化や貢租の重課や厳重な取り立てとなり、また、ゆきすぎた倹約により百姓・町民からの不満を招き、折からの享保の大飢饉(享保6年(信州浅間山噴火)、同7年、同17年)もあって、百姓一揆や打ちこわしが頻発した。それらに対し、享保6年(1721年)6月、「村民須知」、享保19年(1734年)8月、代官への御触書、などによる法令で取り締まった。 宝暦(1704-1710)〜享保(1716-1735)まで40回(実際はもっと多い。)平均一年に2回くらい。[4]。 このように、土地資本を基盤とする反面、土地所有者ではない支配者層という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できずに、金融引き締め的な経済圧迫政策が打ち出されて不況が慢性化した。
なお、「朱子学は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った荻生徂徠が1726年(享保11年)頃に吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世論が本格化する。一方、1724年(享保9年)には大坂の豪商が朱子学を中心に儒学を学ぶ懐徳堂を設立して、後に幕府官許の学問所として明治初年まで続いている。1730年(享保15年)、石田梅岩は日本独自の道徳哲学心学(石門心学)を唱えた。享保年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった。
その一方で、超長期の政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し、学問・文化・芸術・経済等様々な分野の活動が活発化し、現代にまで続く伝統を確立している。
幕府財政は、享保の改革での年貢増徴策によって年貢収入は増加したが、宝暦年間(1751年 - 1763年)には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。これを打開するため、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し、さらに大規模な新田開発と蝦夷地開発を試みたのが田沼意次であった。
田沼は、それまでの農業依存体質を改め、重商主義政策を実行に移した。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を株仲間として公認、奨励して、そこに運上・冥加などを課税した。銅座・朝鮮人参座・真鍮座などの座を設け、専売制を実施した。町人資本による印旛沼・手賀沼の干拓事業、さらに長崎貿易を推奨し、特に俵物など輸出商品の開発を通じて金銀の流出を抑えようとした。また、蘭学を奨励し、工藤平助らの提案によって最上徳内を蝦夷地に派遣し、新田開発や鉱山開発さらにアイヌを通じた対ロシア交易の可能性を調査させた。
これらは当時としては極めて先進的な内容を含む現実的・合理的な政策であったが、松平定信などの敵対派が「賄賂政治」とのネガティヴ・キャンペーンを行い、天明の大飢饉とも重なって百姓一揆や打ちこわしが激発して失脚した。18世紀は北半球が寒冷化した小氷期の時代でもあったため、これが飢饉に拍車をかけたのである。
続いて田沼政治を批判した松平定信が1787年(天明7年)に登場し、農本主義に立脚寛政の改革を推進した。田沼時代のインフレを収めるため、質素倹約と風紀取り締まりを進め、超緊縮財政で臨んだ。抑商政策が採られて株仲間は解散を命じられ、大名に囲米を義務づけて、旧里帰農令によって江戸へ流入した百姓を出身地に帰還させた。また棄捐令を発して旗本・御家人らの救済を図るなど、保守的・理想主義的な傾向が強かった。
対外対策では、林子平の蝦夷地対策を発禁処分として処罰し、漂流者大黒屋光太夫を送り届けたロシアのアダム・ラクスマンの通商要求を完全に拒絶するなど、強硬な鎖国姿勢で臨んだ。七分積金や人足寄場の設置など、今日でいう社会福祉政策を行ってもいるが、思想や文芸を統制し、全体として町人・百姓に厳しく、旗本・御家人を過剰に保護する政策を採り、民衆の離反を招いた。また、重商主義政策の放棄により、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じた。
発展する経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も19世紀を迎えると、急速に制度疲労による硬直化が目立ち始める。またこの頃より昭和の前半までは国内が小氷河期に入り1822年(文政5年)には隅田川が凍結している。
それに加えて、18世紀後半の産業革命によって欧米諸国は急速に近代化しており、それぞれの政治経済的事情から大航海時代の単なる「冒険」ではなく、自らの産業のために資源と市場を求めて世界各地に植民地獲得のための進出を始めた。極東地域、日本近海にも欧米の船が出没する回数が多くなった。例えば、明和8年(1771年)にペニュフスキー、泡・奄美大島に漂流、安永7年(1778年)ロシア船、蝦夷地厚岸に来航して松前藩に通商を求める、寛政4年(1792年)ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂流民大黒屋光太夫等を護送して根室に来航し、通商を求めるが、幕府は日本との外交ルートを模索する外国使節や外国船の接触に対し、1825年(文政8年)には異国船打払令を実行するなど、鎖国政策の継続を行った。文政2年(1819年)幕府は、浦賀奉行を2名に増員した。
松平定信の辞任後[† 1]、文化・文政時代から天保年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍徳川家斉が握った。家斉は将軍職を子の家慶に譲った後も実権を握り続けたので、この政治は「大御所政治」と呼ばれている。家斉の治世は、初め質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による出目の収益で幕府財政が一旦潤うと、大奥での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の異国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方では、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。1805年(文化2年)には関東取締出役が置かれた。水野忠邦はこれまでの世の中になかった変化の兆しを感じていた。各地の農民や町人による一揆、打ち毀し、強訴は例年起こっていた。文政6年(1823年)には摂津・河内・和泉1307か村による国訴は、綿の自由売り捌き、菜種の自由売り捌きを要求して、空前の規模の訴えとなり、これまでの経済の有り様を変えるものであった[5]。
1832年(天保3年)から始まった天保の大飢饉は全国に広がり、都市でも農村でも困窮した人々があふれ、餓死者も多く現れた。1837年(天保8年)、幕府の無策に憤って大坂町奉行所の元与力大塩平八郎が大坂で武装蜂起した。大塩に従った農民も多く、地方にも飛び火して幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。このような危機に対応すべく、家斉死後の1841年(天保12年)、老中水野忠邦が幕府権力の強化のために天保の改革と呼ばれる財政再建のための諸政策を実施したが[† 2]、いずれも効果は薄く、特に上知令は幕府財政の安定と国防の充実との両方を狙う意欲的な政策であったが、社会各層からの猛反対を浴びて頓挫し、忠邦もわずか3年で失脚した。
忠邦はまた、アヘン戦争(1840年)における清の敗北により、従来の外国船に対する異国船打払令を改めて薪水給与令を発令して柔軟路線に転換する一方、江川英龍や高島秋帆に西洋流砲術を導入させて、近代軍備を整えさせた。アヘン戦争の衝撃は、日本各地を駆け巡り、魏源の『海国図志』は多数印刷されて幕末の政局に強い影響を与えた[6]。
こうした中、薩摩藩や長州藩など「雄藩」と呼ばれる有力藩では財政改革に成功し、幕末期の政局で強い発言力を持つことになった。
経済面では、地主や問屋商人の中には工場を設けて分業や協業によって工場制手工業生産を行うマニュファクチュアが天保期には現れている。マニュファクチュア生産は、大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生・足利・結城など北関東地方の絹織物業などで行われた。
1853年(嘉永6年)、長崎の出島への折衝のみを前提としてきた幕府のこれまでの方針に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に黒船で強行上陸したアメリカ合衆国のマシュー・ペリーとやむなく交渉した幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えを見せたペリー艦隊の威力に屈し、日米和親条約を締結、その後、米国の例に倣って高圧的に接触してきた西欧諸国ともなし崩し的に同様の条約を締結、事実上「開国」してしまった。 開国した後は日本のどの沿岸・海岸に外国船が来航するかも知れない事態となり、1853年(嘉永6年)8月から江戸湾のお台場建設を始めた。そして、同年9月15日、幕府は、大型船建造を許可することになった[† 3]。さらにオランダに軍艦・鉄砲・兵書などを注文した。
その後、さらに1858年(安政5年)4月、井伊直弼大老に就任する。米・蘭・露・英・仏の五カ国と修好通商条約と貿易章程、いわゆる安政五カ国条約(不平等条約)を締結し、日本の経済は大打撃を受けた。8月、外国奉行を設置する。同月孝明天皇条約締結に不満の勅諚(戌午の密勅)を水戸藩などに下す。また、幕府にも下す。 この年7月13代家定没し、10月25日に14代家茂征夷大将軍・内大臣に任ぜられる。 翌年6月から横浜・長崎・箱館の3港で露仏英蘭米5カ国との自由貿易が始まった。取引は、日本内地での活動が条約で禁止されていたため外国人が居住・営業を認められていた居留地で行われた。輸出の中心は生糸・茶であった[7]。輸出の増大は国内の物資の不足を招き、価格を高騰させた。他方、機械性の大工業で生産された安価な欧米の綿織物や毛織物などが流入してきた。横浜港で輸出が94.5%、輸出が86.8%行われ、相手国では英が88.2%、仏が9.6%、ついで米、蘭への輸出であり、輸入では英が88.7%を占めついで蘭、仏、米、プロシア、露へであり、輸出入とも英との取引が主であった。また、国内の銀価格に対する金価格が欧米より低かったため、おびただしい量の金貨が海外へ流失した。こうして開港による経済的変動は下層の農民や都市民の没落に拍車をかけていった。[8]。
下級武士や知識人階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」であるという説に反したとされ、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「攘夷」運動として朝野を圧した。世論が沸き起こること自体、幕藩体制が堅牢な頃には起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、京都の天皇=帝(みかど)の存在がクローズアップされる。このため永い間、幕府の方針もあり、政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となっていき、有名な「幕末の騒乱」が巻き起こる。
一時は大老井伊直弼の強行弾圧路線(安政の大獄)もあり、不満「世論」も沈静化するかに思われたが、1860年(安政7年)3月3日の桜田門外の変後、将軍後継問題で幕府が揺れる間に事態は急速に変化する。
これより先に1860年(安政7年)1月には勝海舟ら咸臨丸で米国に向かっている。 1862年(文久2年)1月15日老中安藤信正、水戸浪士等6人に襲われ負傷する坂下門外の変が起こっている。同年2月11日将軍家茂と和宮との婚儀江戸城で盛大に挙行される。同年7月6日幕府、徳川慶喜を将軍後見職とし、同月9日松平慶永を政事総裁職、閏8月1日松平容保を京都守護職に就ける。先の7月には諸藩の艦船購入を許している。 一方、開国で開市・開港が続くなかで、浪士等により1861年(文久元年)と翌年に、第1次・2次の東禅寺事件が起こっている。 薩摩藩では、島津斉彬が死んだ後、後を継いだ藩主島津忠義の父である島津久光が長州藩を牽制すべく公武合体運動を展開し、同年4月藩内の攘夷派を粛清(寺田屋事件)し、幕府に改革を要求した(文久の改革)。1862年(文久2年)島津久光は江戸から薩摩への帰路、生麦事件を引き起こし[9]、翌年薩英戦争で攘夷の無謀さを悟ることになる。
尊皇攘夷派と公武合体派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、尊王攘夷派が主導権を握るようになり、京都公家と結託し幕府に攘夷の実行を迫り、その結果、幕府は1863年(文久3年)5月10日を攘夷実行の日とすることを約束した。長州藩では下関海峡を通る外国船を砲撃した。[† 4][10]。ところが、長州藩では、外国船砲撃の翌日、井上聞多・野村弥吉・遠藤謹助・伊藤俊輔・山尾庸三らを英艦キロセッキ号で、12日に横浜からイギリスに向けて出港させている。この計画の指導者は周布政之助で、攘夷の後には各国との交流・交易の日が必然的のやって来ることを見越し、西洋事情に通じておかねば我が国の一大不利益と考えて、彼らを渡航させたのである[11][† 5]。これらの攘夷実行に対して京都では会津・薩摩藩らの勢力によって1863年(文久3年)8月18日、尊王攘夷派の公卿を京都から排除した。八月十八日の政変である。翌日三条実美らの七卿落ち、翌1864年(元治元年)6月5日、新撰組が池田屋を襲撃した。7月19日長州藩は京都諸門で幕軍(薩摩藩・会津藩・桑名藩)と交戦した(禁門の変)。
禁門の変を理由に幕府は、第一次長州征伐(7月24日)を決行、同時期に、英米仏蘭4ヶ国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠された(四国艦隊下関砲撃事件)(8月5日)。同14日長州、4国艦隊と講和5条件を結ぶ。その後、高杉晋作、木戸孝允らが藩政を掌握した。
1864年9月1日、幕府、参勤交代の制を1862年改正(閏8月22日3年に1回出府などに緩和)以前に戻す。
このような情勢下、1866年(慶応2年)1月21日、薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩は坂本龍馬、中岡慎太郎の周旋により、西郷と桂との間で口頭の抗幕同盟が密約(薩長同盟)された。1866年(慶応2年)6月7日、幕府は第二次長州征伐を決行するが、高杉晋作の組織した奇兵隊などの士庶民混成軍の活躍に阻まれ、また、総指揮者である将軍徳川家茂が7月20日大坂城で病没するなどもあり、8月21日将軍死去のため征長停止の沙汰書が出され、9月2日幕長休戦を協定する。12月25日疱瘡のため36歳で没した。諡(おくりな)を孝明天皇と定められた。新天皇睦仁(むつひと)は1867年(慶応3年)1月9日に践祚した。親長州派中山忠能が外祖父である[† 6][12]。
折から幕法に反して京都に藩邸を置く諸大名を制御できず、京都の治安維持さえ独力でおぼつかない江戸幕府と、幕藩体制の根幹である「武士」の武力に対する信頼とその権威は、この敗北によって急速に無くなっていった。薩長は、土佐藩、肥前藩をも巻き込み、開国以来の違勅条約に対する反対論と外国人排撃を主張、実行に移そうとする「攘夷」を、国学の進展などにより江戸時代後期から広がっていた国家元首問題としての尊王論とを結びつけ、「尊王攘夷」を旗頭に「倒幕」の世論を形成していった。 14代将軍家茂が没してから約半年後の1866年(慶応2年)12月5日に将軍宣下式が挙行され、慶喜が15代将軍となった。慶喜は、早速幕府人事の改革に取り組み、若年寄りや老中などの幕閣を責任分担する制度に改めた。また、仏国駐日公使ロッシュの助言を参照し幕軍体制の近代化、外交権の掌握[† 7]などを行った[13]。同年5月24日、兵庫開港の勅許出る。 しかし、1867年11月9日(慶応3年10月14日)に、15代将軍徳川慶喜は起死回生の策として大政奉還を上奏し、15日、勅許の沙汰書を得る。24日、将軍職を辞する。これは朝廷に対し恭順の意を表し、新しく成立するであろう新政府において重要な地位に立って、大名連合政権の上に立とうとする考えであった[要出典]。武力によって完全に江戸幕府を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を一時的に失ったため、先手を取られた形となった。
しかし、薩長の倒幕派は、1868年1月3日(慶応3年12月9日)に太政官制度を復活させ、天皇を元首とした新政府(明治政府)樹立を宣言し、江戸幕府の廃止と天皇政府の設置を宣言した(王政復古の大号令)。その後、徳川を盟主とする旧幕府軍と薩長を主体とする新政府軍が対立し、1月3~4日の鳥羽・伏見の戦いを機に戊辰戦争が勃発。そして、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)、江戸城が明治政府軍の手に落ち、江戸幕府はついに崩壊した。1月15日、3職7科の制を定める。3月14日、五か条の誓文、同15日、五榜の提示など新政府の施策が次々に実施されていった。
1868年(明治元年)9月8日、明治と改元し、一世一元の制を定める。
江戸幕府が崩壊した後も、一部の幕府勢力が東北地方(5月3日奥羽越列藩同盟成立)などで抵抗したが、1869年5月17日の五稜郭の箱館戦争を最後に新政府が勝利し、戊辰戦争は終結。これによって7世紀以上にわたって続いた武士の時代が名実共に終了し、以後武家が政権をとることはなかった。