ミヤマクロユリ(クロユリ)     (ユリ科バイモ属:多年草:草丈 〜50センチ:花期 〜8月)

薬効
食用
分布生育場所

科名:ユリ科/属名:バイモ属
和名:深山黒百合/別名:クロユリ/学名:Fritillaria camtschatcensis var.alpina
北海道、本州山形県月山、飯豊山地、中部地方の高山帯の草原に自生
千島、サハリン、中国東北部、ウスリー、カクチャツカ、北アメリカに分布

ユリ科バイモ属エゾクロユリ(蝦夷黒百合)
ユリ科バイモ属のアミガサユリ(バイモ/貝母)
新潟弥彦山のコシノコバイモ(越の小貝母)

見分け方・特徴

地下の鱗茎は2〜3センチ、高さ10〜30センチの多年草
葉は、茎の中間〜上部に3〜5枚輪生してつき、披針形〜長楕円形、長さ、4〜10センチ、幅1〜1.5センチ
花は、暗紫褐色、黄色い斑紋がつき、茎頂に1〜2個がやや下向きにつく
株には、両性花と雄花がつく株があり、花被片6枚、長さ2〜3センチ、雌しべの花柱は3裂する
花後、両性花の刮ハは3稜のある倒卵形


採集と調整
昔は、鱗茎を掘り取り食べたという


薬効・用い方
昔、アイヌの人たちは、クロユリ(エゾクロユリ)を、アンラコルと呼び、「黒い、葉、もつ」という意味という
クロユリの鱗片に糸を通して、数珠のようにして乾燥して保存食にした。
鱗茎には、甘みがありかすかな苦味を、茹でて、つぶしたり、野いちごや魚の卵や魚と混ぜて食べたり、澱粉をとった



その他
名の由来は、花の色が暗紫褐色、黒く見えることから、クロユリの名がついた

資料により説明が違うが、エゾクロユリ、ミヤマクロユリ(クロユリ)と説明する資料を支持した

佐々成政とクロユリの伝説
安土桃山の時代に、富山城の城主であった佐々成政(さっさなりまさ/1536-1588)は、 早百合という側室を寵愛していた、それを妬んだ他の側室の讒言(ざんげん)を信じてしまい、早百合を斬ってしまう。早百合は、「私の亡霊が立山に黒百合を咲かせたとき、佐々家は滅びるであろう」と言って死んでいった。
その後、天正13年(1585)佐々成政は秀吉と戦うことになるが大軍の前に降伏する。
天正15年(1587)成政は国替えを命ぜられ九州肥後へと移ったが一揆が起こり失敗した。天正16年4月(1588)佐々成政は摂津の尼ケ崎城に呼び出された。
そして、 佐々成政は、機嫌取りに秀吉の正妻北政所に珍花ということでクロユリを贈った。
それを知った淀君は、クロユリを加賀の白山から取り寄せて、ありふれた花のように飾った。それを見た北政所はクロユリは珍花では無いと怒ったという。
天正16年閏(うるう)5月14日、秀吉は佐々成政に「一揆の責任は、すべて成政が一身に負わねばならない。成政の政道よろしからず」として切腹を命じた。
天正12年(1584)11月の早百合の、クロユリの怨念から僅か4年後、佐々成政は自害して51歳の生涯を終えている。