漢方医学の先覚者・湯本求真

  200312月8日一部加筆修正更新)

 この人物に関しては、最初書いた頃(2年ほど前)は、実際どれほどの知名度かはよくわからなかった。その後、たまたま漢方の医者や薬局の人と話す機会があり、彼のことを質問してみて、確かによく知られた名前だということがわかり、認識を新たにしこのコーナーを書き改めました。

 求真は、名は四郎右エ門、明治9年
(1876321日に、鹿島郡崎山村字鵜浦(現七尾市鵜浦町)で生まれました。明治24年石川県立師範学校に入学したが、医学に志し、明治29年金沢医学専門学校(現金沢大学医学部)に入学同34年にそこを卒業した。明治36年七尾町で医院を、同40年には鵜浦で実家の母屋(母屋)を使って開業しました。郷里鵜浦で開業中して間も無い同43年、疫痢が流行しました。求真は、最新の医療技術を駆使して死にものくるいで医療活動をしましたが、疫痢で長女俊子・祖父・祖母を相次いで失い、村民多数も求真の手当などの甲斐もなく死亡しました。
求真が、これまでに修得した医学の知識をもってしても、このような結果を招いたことに思い悩み、西洋医学に疑問を持ち始めました。ついには、自分自身の医者としての自信も失い、酒浸りの日々が続きました。自著『皇漢医学』の序文に、当時のことを振り返り「明治四十三年に長女を疫痢の為に失った。修得した医術が頼りにならなくて、恨み、煩悶、懊悩すること数ヶ月。精神が殆ど錯乱するほどになった。」と述べています。
 そんな中で求真は、明治3年刊行の和田啓十郎著『医界之鉄椎(てっつい)』に感銘を受け、和田氏に入門を申し込みます。しかしなぜか断られました。求真が、既に医者となっているのに、自分(和田啓十郎)が修行時代忍んだ貧窮生活を求真にさせたくなかったためともいわれています。求真は、書物などで漢方医学の研究に取り組み、診察を続ける中で疑問点や治療方法を、和田啓十郎との書簡と医学研究のやりとりの中で確認しながら、苦心惨憺、試行錯誤の中で東洋医学を学んでいったようです。師弟の書簡の中には、「先生からのご論示のように、独学の利も多々あり、心苦しめて得たものは、その知識に生命があり活力があり云々」や「先生に聞きながらのことであるから、その応用はどうしても狭く、時として多大の苦心と数多くの実験を要し、時間を徒消をするという不利は認めざるを得ず云々」等といった言葉が記されています。2人は一度も顔を合わすことの無かった師弟でありました。大正4年に出版の『医界之鉄椎』の第2版には、求真の論文も掲載されている。求真は、その後も漢方医学を学び、互いの長所を取り入れる研究を進めました。

 大正2年頃、七尾府中町で、「和漢洋医術折衷診療院」を開業しましたが、師への書簡で「七尾位に骨を埋めるつもりはなく、真を究め尽くしたなどと自惚れてはおりません。」などと書いているように、向学心というか医学の情報に飢え、大正4年から郷里を離れ、同年には神戸(求真の妻・政栄が兵庫県の須磨の出身であることと関係か?)に、同9年には東京で開業と各地を転々とする中で、漢方医学の研究をさらに深めていきました。まだ多くの日本人が貧しい当時のことですから、読みたい本もなかなか買うこともできず、師から借してもらい、貴重な本など夫人の手まで借りて、一字一句写し取る苦労を続けました。その他、学術論文、治験報告、薬効分析、追試報告、学術書の紹介、自著の出版の相談など、全て手紙の往復で処理したようであります。漢方では「症をたてることが即ち治療方」に繋がるため、「病気の外因、内因、不内外因」について、望診、腹診、脈診、など術者が自らの主観と感覚で症状を判断しながら、刻々と変化する病状を対処になければならない。文字では表現しにくいこれらの事柄を辛抱強く文章にして書簡にて教示した和田啓十郎氏も計り知れないものと考えられます。
 大正6年、これらの努力が実り
「臨床応用漢方医学解説」が発刊されました。しかし残念なことにこれが刊行された前年の大正578日には、恩師・和田氏が一度も会うことなく亡くなってしまいました。その後も、求真は、昭和2年から3年にかけて、『皇漢医学』第1~3巻を発刊。これらの書物は、中国で、或いは韓国でも翻訳出版され、漢方医学の基礎を築いた著書として、その復興と存続に大きな役割を果たしたのであり、現在もなお東洋医学のテキストとして活用されています。
漢方医学の本場のエピソードだが、中華民国(1936)に中国は医学の科学化に伴い漢方医学を禁止しそうになった時期がある。そんな時、「皇漢医学」が中国語に翻訳、国民政府に提出され、漢方医学の重要性が認められ禁止を免れたといいます。
求真は昭和161022日、九州へ出張の折り、66歳で急逝した。毎年1022日の彼の命日には業績を讃える法会が地元関係者の人々を中心に行なわれています。
昭和
16年没後も、「漢方医学中興の祖」と仰がれ、「東西医学融合の先覚者」とうたわれて第31回日本東洋医学会総会」で顕彰碑建立の事が決定、昭和569月「湯本求真先生顕彰碑」を湯本求真先生顕彰会が金沢市内金沢神社境内に建立し、次いで、昭和5910月、七尾湯元求真顕彰会が「湯元求真誕生之地」の石碑を鵜浦町法広寺境内に建立しました。

(参考図書)
「七尾市ものしりガイド・観光100問百答」(七尾市観光協会)
(図説)七尾の歴史と文化」、
「七尾の地方史」(第22号)の中の「人間湯元求真ー郷土の偉人・漢方の権威」